〜第五章 相模陸軍造兵廠 技能者養成所編 その二〜
四、率先垂範
厳しく辛かった新入生教育からやっと解放され、陽春四月にはいよいよ待望の二年生に進級することになった。
三月二十五日には技能者養成所として第一回の卒業式が行われ、私達三期生とは特に密接な関係にあった一期生が目出度く卒業し、期待を担って造幣廠内の各職場にそれぞれ配属され本領を発揮することとなった。
卒業生の中の特に優秀な人達は、新入生達の室長、区隊長、又は週番生徒として、文字通りに西も東も判らなかった私達を親身になって教育してくれた人達だった。それだけに名残惜しさも格別なものがあり、一抹の淋しさを味わったことは確かである。
卒業式と同時に行われた修了式では、私達三期生の優等生として五名の者が所長表彰を受けた。その中の井上一男、大原三男の両君は第一寮六号室員として私達と寝食を共にしている仲間であった。同じ部屋から同時に二名も優等生を出したということで六号室は一躍有名となり、他から注目される存在となったのである。
同室の者として我々も鼻高々ではあったが、優等生二人と比較されるマイナス面もあった。因みに五名の中の一人、藤井俊雄君なる人物は、戦後横浜裁判所書記を振り出しにしてその間苦学を続け、大学をも了えた。後に難関を極めた司法試験に合格、検察官となり全国各地を巡り支部長検事を務め上げた偉材である。勿論検事正にまで上り詰めている。
同期生中の公務員は多いが、その中でも一番高い地位まで上った成功者であるのに、決して奢らず高ぶらず、その親しみの持てる性格そのものは昔の養成所時代と全く変わっていないのである。これには本当に驚きであった。
そんな彼が功成り名を遂げて平成二年四月退官した。
平成十一年に至り、国家又は公共に対して功労のあった生存者に授与されるという春の叙勲の際、藤井君が叙勲対象となり、何と勲三等旭日中綬章の栄に輝いたのである。
相模会会員の中には公務員出身者も多く輩出している為、叙勲を受けた栄才も多いのであるが、勲三等ともなると私の知っている範囲では希少価値である事は間違いないのである。
叙勲を受けた折は同期生一同、歓声を挙げ、彼の栄誉を祝ったものである。
さて話を戻して昭和十八年四月、春の訪れとともに、東京・神奈川はもとより山梨や新潟、東北六県等より新入生(四期生)が続々集まってきた。その一人ひとりがおどおど、きょろきょろで何となく落ち着きのないのが目立ったものだ。
私達が新入生として入所した一年前もこんな風に不安げな顔を見せ、そわそわと落ち着きのない挙動を示していたのかと思うと、少々可笑しささえ感じたものだ。
ところで私達の一年間に及ぶ厳しい修練の賜物は、やはり目を見張るほどのものがあった事は確かだと思う。仲間のきびきびした動作と新入生の緩慢な行動を見ていると、我々が如何に成長したか、改めて感じたものだ。
帽子の金線も当然、一本増えて二本となった。こうなると何故か、ちょっぴり偉くなった気持ちにさせられるから不思議である。
それまでは敬礼する一方の側に立たされるばかりで、他から敬礼をされる事は皆無だった。二年生になると帽子の金線以外にも、胸に付ける名札や襟章も当然「2」の字に変ると、それまでとは状況がまるで違ったものだ。
生徒舎内は勿論のこと養成所教育棟、廠内の道路上、ありとあらゆる場所で新入生と接する度に「サッ!」と挙手の敬礼をされるのである。この様に答礼する機会が多くなると、やはり気分は上々となる。然し、何となく照れの方が先立って正直戸惑いさえ感じたもので、答礼する方もつい、ぎこちない生真面目な答礼をしていたように想うのである。
私達が新入生の折は、上級生に「敬礼のやり方が悪い!」などときつい気合いを掛けられたものだ。まともな作法が出来るまで、その場で繰り返し何回も同じ動作をやらされる事だってあった。中には叱られている時の態度が悪いとの理由で、「ビンタ」を張られる者さえいた。
想うに、二年生に進級した当時の私は、余程の事でもない限り一年生は叱るまい、と自分に言い聞かせていたように思う。それは過去の経験から生み出した信念如きものであったので、迷うことなく実践したものだ。
但しその接し方は二年生時だけの事であって、最上級生ともなると、種々役職が多くなり責任を課せられる機会が増すので、あくまでも自己信念を貫くわけにはいかない場面に直面することだってあった。
それでも私は、下級生に対しては厳しい注意を与える事はあっても、それ以上のいじめや制裁などに類する行為はした事がないのである。
勿論、体罰など論外で、同期生のその様な行為を見た場合、原因にも依るがむしろ止めにかかる方であった。然し、その様な接し方は下級生を教え鍛える立場にある者として、百パーセント正しい方法ではなかったと思うのである。私なりに自問自答、煩悶を重ねていた事も事実だ。
下級生に対する思い遣りも程々にしないと、よくしたもので大抵の場合、「あの先輩は何を仕出かしても叱らない」などと軟弱児のレッテルを貼られることにもなりかねないのである。
かといって硬軟自在の接し方をするには二年生としては些か修練不足の感もあり、難しさもあった。
一年生との接触で自分なりに心掛けていたのは、口で咎めず、先ず行動で示すよう常に心を配っていたことである。
こんなことがあった。私が二年生一区隊長の区隊取締まりの任にあった時、岩手出身の新入生が居住する寮にぶらりと視察に行った折の事だ。
同郷の岩手出身の新入生全員が頗る(すこぶる)元気だったので、安堵して帰る途中、洗面所前を通りかかった。ふと見ると、新入生の使役数名が厠(便所)掃除をしている最中だった。
因みに使役とは、主として軍隊用語として使った言葉で、例えば洗面所、厠、廊下など生徒舎周辺の清掃の為、各グループに割り当てられ労務に服する者に対する呼び名であった。養成所では日本陸軍の用語を使用することが多かったのである。
少々気になり厠の中を覗いてみると、掃除のやり方が根本的に違っていた。非能率な方法であり、然も立ったまま眺めるだけの者も見られた。
本来このような状態を上司に発見された場合、ほぼ間違いなく一喝され、大目玉を食うところだ。私としてもそのまま見逃す訳には参らず、一言注意しておこうと、厠の中に入っていった。
突然厠の中に入ってきた私を見て、中の一年生諸君は一様に驚いた様子だった。怖々私の顔を見ていたが、全員私に目礼して、また掃除に取りかかった。
「待てえ!そんな掃除のやり方では、何時まで経っても綺麗にならんぞ!それに見たところ何もせず見物している者がいるのはどうした訳だ!使役は全員協力して行うよう教えられているはずだ!それそこのタワシを貸してみろ!」
あの場合、私は見かねて手を出してしまったのだが、丁度その時、折悪しく三年生の週番生徒が通りかかり、私一人が掃除をしている様子を発見!いきなり怒鳴りこんできた。
「こら!そこの二年生掃除を止めえ!一年生は何をしている、上級生に厠掃除をさせて黙ってみている奴があるか!一年生の使役!ぼやぼやせず、掃除をやらんかい!」
三年生の怒鳴り声に、一年生よりむしろ二年生の私の方がびっくりしたくらいだ。三年の週番は間もなく事情が呑み込めた様子で、私には一言も言わず、一年生だけに一喝を与えただけで立ち去った。
あの時私は、戸惑いを覚えた。率先垂範したつもりであったが、結果的に一年生が叱られることになり、迷惑をかけ済まないことであったと、心を痛めた。
「すまん事をしたな、三年生の週番も勘違いしたようだ。これからは、さっきのやり方で掃除すると良い。使役も早く終わるし、効率的だぞ。それに使役はみんなで力を合わせてやるようにした方がよいぞ、わかったな!」
と言い残し、私はその場を去った。
その時から一年後の事である。あの時の一年生が二年生に進級し、私も三年生となって生徒舎全体の週番長を命ぜられていた時のことだ。
岩手県一関出身の二年生が、週番生徒として生徒舎事務室で偶然、私と一年ぶりに顔を合わせることになった。
「週番長の先輩、自分の顔を覚えていますか。昨年一年生の時、先輩から厠掃除の方法を教わりましたね。あの時は本当に失礼しました。自分は、あの時の事を今でも忘れていません。いま自分達があの時先輩に教え込まれた方法を、新入生に指導し喜ばれています」
私は忘れかけていた出来事だったが、後輩の心からの述懐のひと言が本当に嬉しかった。
教育とは、やはり行動で示すのが一番なんだと、改めて悟った次第である。
(平成五年八月一日 記
)
三、相撲の教訓(二)
その日、六号室の面々が例によって意気投合し、室内相撲をやろうと相談が纏まった。
それには先づ寮長の不在確認を取る必要があった。その確認作業の重要(?)な任務を負ったのが、新潟県出身のT君であった。
彼の慎重を極めた偵察の結果、寮長は不在との結論に達し、早速十五畳の部屋一杯を利用し、「ドタン!バタン!」と威勢よく取り組みが開始されたのである。
ところが折悪しく丁度秋山君と私が取り組み最中の事だった。全く不意に「コラッ!」と一喝され、びっくり仰天してしまった二人が部屋の入口を見ると、何と不在のはずだった寮長が、竹刀を片手に入口に立ち、こちらを凝視しているではないか。
「そんな馬鹿な?」と、偵察に出たT君を一瞬恨んでみたけれど、現実に寮長はすぐ側に立っているのだ。
鈴木寮長は部屋の中央で驚きの余り棒立ちになったまた動かぬ私と秋山生徒をすばやく捕獲し云った。
「M!秋山!相撲はお前達二人だけでやっていたのか!」と来た。しかしここで二人は「とんでもありません!六号室全員でやっていました」と実態を正直に申し出るわけにはいかなかった。
何故ならば、あの時二人がとっさに考えたのは、犠牲は二人で充分だということであった。
私と秋山は咄嗟に
「は、はい!二人だけでやっていました!」
「本当にお前達二人だけか。正直に答えよ」
「はい!二人だけでした」すると寮長は
「よし!二人とも廊下に出よ!」
さあおいでなすった。相手は竹刀を持っている。恐らくあの竹刀でこっぴどく打たれるであろう事を覚悟の上で廊下に出た。
すると、部屋から出た途端、「面一本!」ときた!ところが、頭部を一本まともに取られているのに痛さはあまり感じないのだ。何故か、竹刀で掠った程度の感触しかなかったのである。それも「面一本!」の一回のみで終わった。些か拍子抜けの感じがした。
あとで判った事だが、寮長は秋山生徒と私が他の者の犠牲となり名乗り出た事は十分判っていて、「面一本」取るにしてもかなり体力をセーブした制裁だったのである。
剣道に秀でた鈴木寮長にしてみれば、痛みを余り感じさせない「面」の取り方なんて朝飯前の事だったのかもしれない。更に寮長は私達二人に言った。
「そんなに相撲が取りたかったら、外の土俵で思う存分、気の済むまで取ってこい!但し寮長の止め!の命令があるまで取り続けろ!途中で止めたら承知しないぞ!解ったら始め!」
何と、罰則の為の制裁は終わっていなかったのだ。私達二人は寮長の気迫に押され、止むを得ず隣の寮前に設営してある土俵まで行き、今度は上着を脱ぎ捨て、懸命に相撲と取り組んだのである。
季節は冬二月、寒さの募る時季である。流石に土俵の上で素足になるのは少々堪えたものだ。寮長は暫く一寮玄関前で監視していたが、何時の間にか一言もなく、寮内に消えてしまった。
然しながら、寮長の姿は見えずとも、相撲の方は怠ける訳にはゆかないのだ。二人は一向に「止めい!」の命令がないまま、一心に取り組みを続けていたが、時間の経過とともにぼつぼつ疲労感に襲われ始めていた。それでも寮長の命令を固く遵守し、なおも相撲を続けていた。
事情の知らないものがこの光景を見たら、「この寒空にあの二人何を好んで」と不思議な光景に映ったことだろう。然し二人は真剣そのものだったのである。
心の内では寮玄関前に一刻も早く寮長の現れる事を願っていたが、一向に姿を見せる気配がないので、とうとう二人は痺れを切らし、土俵の中央に立ち「どうしよう」と思案投首の状態となった。と、その時だ。
「こらっ!何故止める、続けて取らんかい」
しまった!二人は気を取り直し、また夢中になって取り組みを始めた。ところがその後間もなく寮長の中止命令が出たのである。
「止めい!もうよい、それだけやったら満足だろう。二人とも、相撲は土俵の上で取るものだという事を忘れるな、よいな!足を洗って直ちに部屋に戻ってよい」
その時の寮長の顔は、特有の優しい顔に戻っていた。然も笑みさえ浮かべ、二人を見つめていたのである。
秋山生徒も私も複雑な思いを抱き乍ら、疲れ果てた体を引きずるようにして部屋に戻った。同室の者は皆一様に気の毒そうな顔で私達二人を迎え入れたのである。
戦後二十二、三年を経た頃だっただろうか、養成所の同窓会の席上、かつての寮長である鈴木教官に懐かしさのあまりこの話を持ち出したら、鈴木教官曰く。
「そんな事ありましたかね、寮生はみんな私の弟みたいなもんで、つまり家族同然でしたよ。兄貴のつもりでやった事だと思います。唯、今の話を聞いて一つ言わせて貰えるなら、その時のあなた達二人は恐らく他の仲間を庇って、男らしく名乗り出たものでしょうから、私の信念からすれば、他の室員に友情の大切さを知らしめる為に、二人に犠牲になって貰った。これが本音だったと思いますよ。それにしても貴方がた二人には悪い事しましたね」
聞いていた私も言った。
「とんでもない事です。私達二人も寮長のお気持ちはある程度汲んでいたつもりです。今では懐かしい想い出を作って下さった寮長に感謝してるほどなんですから」
と述べると、元教官である鈴木老師は
「そうですか…有難う」
と言い、目を瞬かせながら、昔を偲んで下さったのである。
その時私は、元寮長の慈愛に満ちたことば全部を、今は泉下に眠る親友、故秋山明生徒にも聞かせてやりたかったと、しみじみ懐旧の情に駆られたことは勿論だった。
その外にも鈴木寮長の温情に助けられ、励まされた事は数限りないほどだ。
人間鈴木老師は、現在(執筆当時。平成四年現在)七十五歳になられる。何時までもお元気で、私達教え子を末永く昔のように叱咤激励して戴きたいと願わずにはいられない。
この逸話はほんの一例に過ぎない。養成所時代の寮生活は、総じて軍隊生活に近いものだっただけに、ともすると規律の厳格さのみが表面に出て全く潤いのない生活だったと思われがちだ。然し、この話以外にも心温まるエピソードは山ほどあり、尽きる事はないのである。
(平成四年五月三日 記
)
「追悼記」
恩師鈴木将三先生は、残念ながら平成十三年十一月三日、ご病気中のところ薬石効なく逝去された(享年八十四歳)。先生のご遺徳を偲び、心からご冥福をお祈りするものである。
二、相撲の教訓(一)
選抜試験後の寮編成替えに依り、我々上位合格組の一学年は、同じ生徒舎の一寮及び二寮に集められた。同時に学年の組編成も行われ、一つの組六十四、五名の大きな編成で三組まであり、私は一組の所属となった。
私の入寮した第一寮は当初総勢九十五名だったが、寮生の中には厳格な躾をもって成る寮生活でも腕白ぶりを発揮する強の者も結構みられたものだ。
その腕白小僧共を統率する寮長は、鈴木将三予備役軍曹であった。当時二十五歳、少々小柄な対応ではあったが厳正な中にも温厚さを秘めた方で、我々寮生から見た寮長殿は、寮長と言うよりも厳格な中に優しさを備えた頼れる兄貴といった存在で、全寮生の敬慕の対象となっていた。
寮長を補佐する副寮長は一期生である三年生が勤める事となり、寮内に睨みを効かせたものだ。選抜試験終了後は各部屋の室長制度が無くなり、代わって寮内の規律維持全般は大方副寮長の役目であった。
ところが副寮長と言えども監視の目が全般に届かぬことが多く、それを良いことにぼつぼついたずら小僧共が本領を発揮し始めたのである。
生徒舎内の規律や風紀が乱れ出した状態を憂慮した養成所上層部、特に訓練掛は苦肉の策として、特に自習時間等に限られた対策ではあったが、一時二年生を派遣し臨時室長として厳しい監視の任に当たらせるという一幕もあった。
そうなると流石の腕白共も鳴りをひそめて元の大人しい顔に戻り、勉学に没頭するようになったのである。たった一歳の違いでも二年生はやはり上級生。怖い存在には変わりはなかったのである。
ましてや最上級の三年生ともなると、身に備わる威厳・重みは抜群で、一年生から見ると正に天の人であった。
私に対する入居指定は、一寮六号室であった。この部屋は何と寮長室の隣室の為、部屋の中で暴れ回ると直ちに寮長に知れるという不便さ(?)はあったが、時折寮長室の掃除をしたり寮長の洗濯物を進んでやったり、といった具合で、寮長にはかなり迷惑もかけたが、反面お役に立って可愛がられもした記憶もある。
六号室には当初九名入り、後日再選抜で仲間となった秋田出身のA君が入室し、十名となり満杯となった。
勿論、選抜後は各県混成チームであり、神奈川が三名、山形二名、福島一名、岩手一名、秋田一名、新潟一名、山梨一名となった。
新編成となって当然予想されたことだが、先ず第一の関門は言葉の面であった。これには東北勢の五名が大変苦労を強いられたのである。東北弁が標準語であると思っていた東北勢が五名と多かったが、神奈川と山梨、負わせて四名の標準語に近いペラペラ状の語りには、初めの中とてもついてゆけなかったのである。
私なんか同室の同輩に対し、思うように語りかける事さえ遠慮がちになる状態で、何時も黙りこくっている有様だった。ところが良く見ると今一人、殆ど誰とも語り合えずに両膝を抱え込み、俯いてばかりの生徒がいた。山形市出身のS君であった。
彼もまた、私に決してひけを取らぬほどのひどいずうずう弁。何のためらいもなくペラペラ語り合っている神奈川勢の中には中々入り込めず、つい無言状態になってしまう様子で、そうした点では私と全く同じ状態であった。
このS君なる人物、最初の中は私同様ダンマリ戦術で実に静かなる男で通っていたのだが、何と半年も経たら、S君と私は六号室で一番賑やかな存在に変貌し、同室の連中を唖然とさせたのである。
そんな訳で、私が同室の仲間で最初に心を開くことが出来たのは、山形出身のS君であった。同じ言葉の悩みを持つ仲間として、直ぐ仲良しになれた。以後長い間親交を続けたことは勿論で、実に得難い貴重な友であった。
因みにこのS君は、それから三年後のことだが、造幣廠内全従業員対象の技能競技大会に於いて、やはり同室だったT君と共に未だ養成所生徒の身であり乍ら、フライス盤の部で現役の熟練工を尻目に優秀な成績を収め、見事造幣廠の長賞に輝いた逸材でもあった。
部屋の中では比較的同調を心懸け、仲間内での喧嘩、口論等の発生は目に見えて少なく感じたものだ、
同室の仲間の一人であるA君は山梨県増穂町の出身であったが、私とは一間の押し入れを半分ずつ共同で使用していた関係もあり、仲良し組の一人として、全ての面で頼りになる貴重な友であった。
ところが太平洋戦争終結となり、全員故郷へ返される事態となり、A君も故里山梨に帰って間もない頃、病魔に侵されるところとなり、悲しい事に早々とこの世を去ってしまったのである。私にとっては彼も掛け替えのない友であったので、本当に残念の極みであった。
生徒舎の午後九時、特殊勤務以外の者は、全員就寝の時間である。もの哀しい響きを持つ消灯ラッパが生徒舎内外に鳴り渡る頃、大抵の者は遥か故郷に思いを馳せる時間であった。
特に厳しい指導のあった教練とか武道等のしごきとか、上級生の手荒い制裁を受けた日の夜などは、すぐ脇に並んで寝ていたA君とは故郷の両親や兄弟を思い、つい布団の中で共に涙した仲間でもあった。戦後に至り、同窓会の情報としてA君の死を知った時はやはり大変なショックであった。
相模の友としては健康で長生きして欲しい仲間の一人だったのに、何故か十八歳の若い命を散らして早世してしまったA君。掛け替えのない友を失った寂しさは未だに消えることはない。
親友A君とは、故秋山明君を指す。彼秋山との想い出は数限りないほどだが、その中でも特に印象深いものを辿り述べてみることにした。
秋山は、同期生の中では生え抜きのスポーツマンであった。特に水泳の達者な点ではピカイチ的な存在であった。山国育ちの私など、入所した頃は殆ど犬掻き程度の泳ぎしか出来なかったが、一応型通りの泳ぎが可能となり、海軍に入隊してからも特に恥をかくこともなく済んだのは、養成所時代の親友秋山の熱心な指導があったからだった。
そうした面でも、故秋山に対する感謝の思いは消えずに残っている。
これから述べる事は、生徒舎生活に於ける懐かしいエピソードだ。
編成替え後も一段と厳しさを増した寮生活にも少しずつ慣れてきた頃、私達一年生はうっ憤晴らしの為もあって、自由時間内に上司や上級生の眼を掠め、室内でよく相撲や柔道の真似事をやる事もあった。
勿論こうした行為は、生徒舎規則から見れば御法度の行為だ。規則に反し敢えてこれをやる連中は、限られたやんちゃ坊主ばかりで、私もその中の一人だった。前に述べたように、私達は六号室。寮長室のすぐ隣であったので、寮長在室の場合は当然細心の注意を払い、大きい物音を立てるなどの行為は極力避けるようにしていた。
そうした面では、我々の六号室は他の室に比べやはり不利な条件の下にあったと言うべきかもしれない。
然しながら全ては要領を本分とし、ボロを出すような事はそれまでは皆無で、寮長の受けは比較的良い方であった。ところがである、「弘法も何とかの誤り」の類であったのか、或る日予想外の大失態を演じてしまったのである。
(相撲の教訓(二)へつづく)
一、難行苦行の教科
念願であった選抜試験の突破を果たし、私達は新編成の下、直ちに学課、実習、教練とそれぞれ難解山積の教科や、より厳しさを増す教練等に立ち向かう事になった。
そのどれもが選抜テスト前とは比較にならないほど難行苦行の連続で、その上厳しさが加味されたものであった。
特に教練の厳しさは舌筆にて表現できない程のものがあった。教官は現役の下士官または予備役の下士官で占められていた。教練の種目によっては、流れる汗を拭くことも許されず、眼に入り頬を伝わり口を汚し、遂には胸元まで達するといった有様。
綿(わた)の如く疲れ果てても尚繰り返し行われ、いつ果てるとも知れない。現役の軍人ならいざ知らず、十五歳になったばかりの身には、少々応えるものがあった事は確かだ。
思い起こせば辛かった事のみが脳裏に浮かぶ。銃剣術の訓練も同様の厳しさがあった。「構え銃」の姿勢から始まり、前進後退の繰り返し。動作が鈍いと叱られ、おまけに罰として連続兎跳びをやらされる。忽ちに膝はガクガク、呼吸も苦しくなるばかり、教官の「止め!」の号令は待てど暮らせど掛からない。こうなると顔面も自然蒼白となってくる。
あの様な時、私はふと思ったものだ。将来造幣廠を背負って立つ、基幹従業員を目指すという事は、あらゆる辛さ、苦しさに耐える事であろうかと。
斯くの如き厳しい訓練の結果が、三年経過後にやってくる海軍生活に於いて思わぬ効果を表す事になるのだが、その事は稿を改め[海軍編]で詳しく述べることにしたい。
教練のみか生徒舎生活の起居動作に於いても四六時中緊張の連続で、一寸油断するとすかさず叱責が飛び体罰が課せられるか、又は容赦なく上級生のビンタが飛んできたりする。
少しでも反抗的態度を示す者は論外だが、動作の緩慢な者や要領の悪い者は、気の毒な事に自己研鑽が求められると共に、殴られてばかり。その様な現場に遭ったりする度に何故か複雑な思いに駆られることもあった。
学課も大幅に増え、選抜前とは大変な違いを見せていた。記憶を辿り主なるものを挙げると、その多さに驚く。
修身、国語、歴史、地理、代数、幾何。
物理、化学、設計、製図、工作、習字。
伐科、英語、兵器、機素及び機構学、原動機学。
等々で何と、十七課目以上に及んだ記憶がある。
技能者養成所は、先に述べたように東北及び中部地方の一部から、一次選考を経て集められた少年軍属約一千名の中から、入廠後さらに選抜試験で約二百名の将来の基幹従業員となる候補を選び出し、これに当時の甲種工業学校の課程を履修させる制度であった。
更に又、我々生徒側から見るともったいない様な一流大学出身の教授陣を揃え、万全の体制で臨んでいたのである。
その陣容たるや、武官、文官各々半数ずつの体制だったように記憶しているが、見習士官出身の少・中尉の教官が多かったように思う。文官の方も高等文官ばかりで、中でも異才は、陸軍大学の教授の資格を有する中佐相当官も名を連ねていた。(教授掛長)
こんな状態だったので、我々には本当に勿体ない、秀れた教官ばかりを揃えていたのである。
尚、教材の方も官(軍)の力を惜しみなく発揮し、豊富に与えられていた。従って戦時下の為、物不足に悩んでいた当時の民間諸学校では考えられないほど充実した内容を備えていた。
その上に重要だったのは、月謝は無料である上に身分は一応陸軍の軍属であったので俸給も支給され、賞与だって支給対象であり、最高に恵まれていた事は確かである。
軍属と言っても歴とした生徒であり、一般の少年工とは違い服装も指定された物以外の着用は許されていなかった。正帽及び略帽には所属工員科と学年を表す金線(見習)白線(養成)が巻いてあった。
そんな訳で、特に見習工員科生徒は工員の幹部候補生のようなもので、一般工員の羨望の的ともなったのである。
さて学課の方だが、普通学課と工業学課に分かれていた。教練、武道、体操、工場実習などがあり、武道と教練を除けば現在の工業高校と大差はないと思うのであるが、どうであろうか。
養成所生徒は皆、地方の高等小学校(二年制)を了えた者ばかりであり、当時英語は敵性語という事もあってさほど重要視されておらず、小学校高等科卒程度の学力では英語の時間についていくことさえ大変であった。
但し、英語の方は時間をかければまだ何とかなったのが実態であったが、何ともならないのが工業課目の方だった。
当時の高等小学校では数学の学習は確か連立方程式程度で終わっていたと思う。養成所一年生の数学も一応これに合わせた形で、次の学習段階である高次方程式、対数、級数因数分解、三角法、そして微分積分へと進むことになっていた。ところがである、力学一つ例にとっても解る通り、一般力学原理から材科力学、流体静力学といった具合で、この中からどれを取ってみたとしても、級数や因数分解程度の数学知識では正直手も足も出なかった。
従って、夫々専門課目を教える側の教官達は先づ自分の受け持ち課目に手をつける前にどうしてもその課目に即した数学を教え込まなければならない状況にあった。
そうでもしなければ、藪から棒に「ミュウ」だ「オメガ」だ「ユプシロン」だなんて言われたって、只混乱を招くだけに終わっていた筈である。
教官達だってやり切れないものがあった筈だが、生徒の側だって非常に辛い思いをしながらの勉学であった。そんなアンバランスな状態の中で、教課は十七課目以上にも及んでいたのだから、大変さも頂点に達していた訳だ。
振り返ってみると、高等小学校卒にとっては、どう考えたって中々解るはずもない材科力学や流体動力学だって、期末テストのある度何とかパスして、結果落第もせずどうにかこうにか無事卒業したのだから、その事は優秀な教官達の指導の賜物としか言いようがない。
ところが、そうした苦労の積み重ねの上で得られた学習の成果も、その後に来た苦難と挫折の人生に於いて必ずしも充分役立っていたとは思えず、私の場合、戦後の混乱期を境に情けなや、その大半は忘却の彼方に消え去ってしまった。
当時の秀れた教官の皆様には本当にすまない事だと至らぬ自分を責めると共に、その強い反省の思いは未だに強く残っている。
(平成四年四月五日 記)
〜第五章 相模陸軍造兵廠 技能者養成所編 その一〜
八、運命の岐路選抜試験(二)
昭和十七年六月二十七日。遂に待ちに待った選抜試験合格者発表、並びに各工員科別編集発表の日である。
その朝私は、例え結果はどの様に出ようとも一切じたばたせず、天命に従って堂々と振舞いたいものだと考えていた。
発表は、何故か養成所大講堂から離れ第一生徒舎の運動場と決まった。これは異例の事だったようだが、それだけ私達三期生の人員が多数だったことに起因しているように感じたものだ。
広い運動場に私達第三期生全員が威儀を正し粛然と整列、特別発表を待った。正面には養成所長・門司大佐を始め、教授掛、訓練掛の将校(士官)や下士官クラスの教官達が、きら星の如く顔を揃えていた。
私達の後方には、入所以来三ヵ月間新入生と起居を共にしながら、西も東も分らぬような私達を文字通り手鳥脚取りで育て上げて呉れた一期生の先輩達が、役目を終えて心配そうな顔で整列し見守っていた。
正に運命の分れ道、かすかな望み、諦めと不安、そして祈り。何とも表現のしようもない複雑な思いが次々と脳裏をかすめる。あの日あの時の光景は、半世紀を経た今日なお、胸を打つばかりの懐かしさを伴って甦ってくる。全員固唾を呑んで待つ事久し。やがて、
「只今より見習工員科第一学年合格者の発表並びに、養成工員科及び青年工員科編集者の発表を行う。呼ばれた者は、返事をした後に列から出て、一番右翼に呼ばれた順に四列縦隊に整列すること!先ず最初は、上級の見習工員科合格者を発表する!」
いよいよみんなの憧れである見習工員科の発表である。点に祈る気持ちとは、正にあのような場合の心境を指すのだろう。
「一番 大原昭三郎」「二番 大原三男」偶然の事だろうが、大原姓が二人続いて呼ばれ列から離れて行った。続いて三番、四番、五番と次々に呼ばれ、駆け足で飛び出してゆく。発表は、合格成績順による呼び出しであるようだ。
合格の栄誉を受けて呼び出された者は、上級生の目なんか全く気にせず、雀躍りして喜ぶ者、満面に笑みを浮かべ、やや得意げな顔を見せる者、それぞれ表現は異なるがその嬉しさはみな変わらぬはずだ。
すでに四、五十名近い合格者が呼ばれているが、私の名は一向に出る気配はない。
「やはり駄目か・・・?然し合格者は二百名は呼ばれる筈だ。最後まで諦めずに待つことにしよう」
そう思ったその時、何故か急に親の顔がちらつき始めていた。親は私を信じて待っているに違いない。そう思ったら少々焦りを感じ始めていた。
合格者は最右翼の列に、胸を張り誇らしげな顔で規律正しく整列している。丁度その時、岩手の二戸郡福岡町(現二戸市)出身の坂本六郎君が呼ばれた。「良かった!二戸から一人出た!」と安心に加え、羨ましさを感じたことを覚えている。
その時から間もなく、遠くの方で○○番М!と私の名を呼ぶ声がした。反射的に思わず「はいっ!」と大きな声が出た。半ば諦めかけた矢先の事で、一瞬吾が耳を疑ったくらいだ。だが確かに私の名を呼んだ。
気もそぞろの儘ではあったが、直ちに両手をさっと小脇に抱え、駆け足で席を離れ、合格者の列に入る。例えようのない嬉しさが込み上げて来る。余りの嬉しさに身体中が震え、足が地に着かないような有様だった。
一方、合格者の列に当然入るものと思われていた親友の三浦三次郎君の名が、期待に反し、最後まで呼ばれなかった。この現実には、唯々我が事のように悔しさが募ったことを覚えている。
結局、十五区隊一号室からは、何故か私一人だけが合格した。岩手県勢約五十名の中では八名が合格し、二戸郡出身者十三名の中からは前述の坂本六郎君と私の二名だけが合格したのである。
合格者が居並ぶ列に入り周囲を見渡すと、嬉しさの余りみな顔が紅潮しているように見えたものだ。
興奮と歓喜、そして期待の夢から覚めた大きな挫折感。悲喜交交のセレモニーは、かくして終わった。
相模陸軍造兵廠、技能者養成所第三期生、造兵廠の将来を担う基幹従業員が約束されていた精鋭部隊の一員として、合格者の列中に入る事が出来た私は、最大の夢が実現し、ふと故郷に在る両親に思いを馳せた。
「おめでとう、よかったな、よかった、よかった」
と微笑みかけて呉れる親の顔がちらつき、感激の余り目頭が熱くなった事を覚えている。私に限らず、どの生徒も、あの発表会場に肉親は参加していなかった。
難関突破を誰よりも喜んで呉れる筈の肉親がいない事は、それなりに寂しいに違いなかった。だが皆それぞれに、遠い故郷に在りて息子の合格を一心に祈念し続けていたことだけは間違いないことだと考える。
合格の報せを一刻も早く連絡したいのだが、当時は電話はおろか電報さえも使う事が許されていなかった。肉親が嬉しい合格の報せを受けられたのは、遠近の差はあったと思うが、早くて四、五日、中には一週間後に手にすることになる、手紙によるしか方法は無かったのである。
あの合格発表は、私の長い生涯に於いて、やはり最高の感激を満喫した一瞬であった事は間違いないことである。
然し乍ら、私達の歓喜の陰には悲嘆の涙に暮れた仲間もまた多かったのである。同室の親友三浦三次郎君もその中の一人だ。
彼は学課の成績は誰が見ても優れている一人であった。それなのに何故か選に洩れてしまい、養成工員科の現状に止どまる事になってしまった。何が災いして合格者の中に入る事が許されなかったのか、私ふぜいの者などの知り得るところではなかったが、最後まで一緒にと願っていた友、三浦と別れることになり、本当につらく残念の極みであった。
昭和十七年度、新入生約一千名の中から選抜された者百九十五名、合格者全員の整列が終わり、やがて首席で合格した新潟出身の大原昭三郎君が、所長門司昇一大佐の前に進み出て、合格者を代表し申告した。
「大原昭三郎以下百九十五名は、本日を以て見習工員科に編集を命ぜられました。ここに謹んで申告致します!」
実に堂々と、然も大きくしっかりした声であった。
その後、引き続き養成工員科及び青年工員科の発表も行われたが、中位の養成工員科に止どまった者はまだ救われるとしても、下位の青年工員科に編入された者は本当に気の毒で、慰めようもないくらいだった。
同室からも、数名の生徒が青年工に編入され、みな一様に肩を落として、第一生徒舎を出て廠内宿舎(一般工員用)に移動して行った。
このようにして、三か月の間寝食を共にし苦楽を分かち合った仲間たちと別れることになり、淋しさは募る一方だった。私一人だけが合格を果たした事は、喜びの反面、耐えがたいような辛い思いがしたものである。
発表の日の翌日からは、早速大幅な寮の編制替えが実施されるとあって、各寮単位に玄関前でお別れの記念撮影があった。又、私達見習工員科合格者は、学籍簿に貼付するための個人単位の撮影もあった。
今日その折の写真を見ると、当時はまだ眼鏡は掛けていなかったが、入所時持参した写真と比べると目が爛々と輝いて見える。改めて説明するまでもなく、たった三ヵ月間にせよ、厳しい訓練の成果がそうさせたもののようだ。
合格者百九十五名は、新編成の下、同じ第一生徒舎の一、二寮に分散入居することになった。同じ東北地方の岩手と青森県人のみであった第八寮と違い、今度は各県混成に依る各室、各区隊の寮編成であった。
当然のことだが知らない顔が多く、おまけに周囲を見ると気のせいか皆利発そうな顔にばかり見えて、
「これは大変な集団の中に入ってしまったぞ、これから先は、皆強力なライバルになるんだ!」と、正直なところ怖じ気症状に陥った感じさえしたものだ。
ところで選抜により最上位のグループに入ると、帽子に巻いてある白線が、即座に金線に変わるのである。思えばこの金線に憧れを抱き、目標にして新入生の誰もが死に物狂いの努力を重ねてきた。同時に左胸に付してある名札も、白から金色に変った。その為、廠内の屋内外を問わず何処にしても目立つようになっていたのである。
努力の積み重ねの末にやっと勝ち取ったゴールドの栄誉であったが、他から見て目立つという事は、決して良い結果ばかりを生んだ訳ではなかった。
その最たるものとして、何時如何なる場所に於いても、常に監視の目から逃れられないといった不便さ(?)が付き纏っていた。そればかりか、帽子の金線は一応エリート集団在籍の証明でもあった為、他工員科の生徒は基より、造兵廠内の一般工員さん達の妬みや嫉みも予想以上に大きく、常に戸惑いを感じながらの生活が続く事になったのである。
但し只一つの救いは、造兵廠の上層部及び養成所の各教官達からは、非常なる期待と好意で見られていたことである。
またまた余談ではあるが、廠内の女子従業員、特に病院に勤務する准看護婦さん達からは、大変な好意の眼で見られていた事は確実であった。
彼女達は養成所の教室を時々利用し講義を受ける事が比較的多かったので、そうした接触があったせいか、我々を兄妹の様に思ってくれたような気もする。私達が最上級の三年生になった折などは、彼女達の入っている教室にうっかり入ったりすると、大変な騒ぎになったりした事もあった。そんな想い出も残っている。
然しながら、常に誇り高き感情を持ち続けながらも何時でも人の目を気にしなければならないという不便さもあり、少しも油断の出来ない毎日であったように記憶しているのである。
なにはともあれ、こうして私の選抜試験突破の夢は、辛うじて果たす事が出来た。但しその後の私は、優れた体力と頭脳を有する集団の中に在って、選抜テスト前の数倍も呻吟し苦悶を続けながら、三年間の生徒時代を送る事になったのであ
勿論、人間は努力の末勝ち得た誇りは大事にして、その事を土台にした生き様を変えずに、生涯にわたり雄々しく生き続けたいものである。
然し乍ら私の、陸軍造兵廠、技能者養成所時代の三年間は、集団の中で誇りだけでは生きてゆくことの難しさを思い知らされる場面も、決して少なくはなかったのである。
(平成四年三月二十日 記)
七、運命の岐路選抜試験(一)
季節は初夏六月に入っていた。入所以来三ヵ月間、愈々伸るか反るかの、選抜試験が目前に迫りつつあった。
何が何でも最上級の見習工員科に合格を果たさねばと、みんな眼の色を変え、寸暇を惜しんで勉強一途に明け暮れて来た。比較的呑気さを装っていた私も、テスト前は最後の勉強に真剣に取り組んだものだ。
決められた日常の自習時間だけでは足りず、寸暇を惜しんでは予習復習に励んだ。自由時間は基より、例えば食事時間の中でさえ本や学習ノートを膝の上に置き、勉強を怠らなかったのである。
その頃は夜九時の消燈後も受験者の為に特別に延燈が許可され、生徒舎中央の大食堂の照明が赤々と灯されていた。志ある者は点呼後に大食堂に集い、文字通り一心不乱に勉学に熱中した。勿論、私もその中の一人であったが、夜更けの食堂は何時も八十パーセントを超える新入生で埋まっていた記憶が残っている。
たまに聞こえるのは誰かの咳払い程度で、「しーん」と静まりかえった環境は最高のものがあり、その中でみな眠気を忘れ眼を皿のようにして、無我夢中で勉強と取り組んだのである。
この様にして正に空前絶後とも言うべき猛勉強が連日連夜続けられていた。あれ程の厳しい勉強ぶりを示したのは、残念乍ら、その前後の人生に於いては全く無かった事である。
今日。養成所卒業生に依る同窓会「相模会」の会合時に於いても、当時の異常とも言える猛勉強ぶりがよく話題に興される事が多いのである。
「とにかく、寝食を忘れよく勉強したものだよなあ。あれ程の勉強をそのまま続けていたら、東大の教授くらいにはなれたか、さもなくば、間違いなく精神異常者になり下がっていたかもな」
などと冗談が出るほどで、あの選抜試験は、新入生約一千名の誰もが体験することになった人生最初の岐路であり、男児の決選場とも言うべきものであった事は確かである。
但し、斯程の厳しい猛勉強ながら、今日の様な受験一辺倒のゆがんだ青春の弊害は勿論、そのカケラも見出せなかった。軍隊同様の厳格な生徒舎生活ではあったが、勉強はあくまでも自主性にまかせ、ほんの少しでも強制したり、ましてや威嚇に依る強要などの行為は全く見当たらなかったのである。
さて、そんな状態が延々と続いていた為、同じ造兵廠内に勤務する実兄とは中々面会も叶わず、少々寂しい日々を送っていた。私は、選抜試験に見事パスしたらその時こそ、胸を張って兄に逢いに行こうと考えていた。然し乍ら、万が一一級ランクに不合格になったらどうしようと、真剣に悩んでいた事も事実だ。
我が一号室長長谷川先輩の言葉を借りると、
「選抜テストは難関中の難関で、この一号室からは合格者を出すこと事態大変難しいことだと考える」
この言葉がどうしても頭から離れず、一抹の不安から抜け出せずにいたのである。そんな訳で、故郷に在る家族のことなども、ともすると忘れがちでさえあった。
夜、不寝番に立ち寮内を巡回すると、深夜に廊下のかすかな明かりを頼りに蒲団の中で勉強する者もよく見られたものだ。こんな光景に逢ったりすると、「みんな一生懸命なんだ!俺も負けずに頑張らなくちゃ!必ず合格して、親を喜ばせてやろう!」と自覚させられたものである。
六月十六日、機は熟し、愈々明日からテスト開始という日だった。時は太平洋戦争の最中に在り、当時日本軍は連戦連勝の戦況の下にあった。造兵廠内で比島で捕獲した、米陸軍のM3戦車を見る機会が与えられた。
憎悪と興味、半々の目で見学したが、キャタピラーにゴムを装着させ、何と平均時速七〇キロで突っ走ると聞き仰天したものだ。
更にまたシンガポール占領の一番乗りは、当時日本の戦車製造の主力工場であった相模陸軍造兵廠製の日本陸軍が誇ったあのテハ車(九二式中戦車)ではなく、何とぶんどり戦車である足の速いM3だったと聞かされ、唖然とした覚えがある。
引率の某教官曰く、
「お前達!将来はM3に負けない優れた戦車を使って貰わないと困るぞ!」
と、ハッパを掛けられる一幕もあったのである。但しこの日のことは、選抜試験を前に息抜きになった事は確かだった。
六月十七日、選抜試験スタートの日だ。やる事だけはやった。あとは運を天に任せるのみと、開き直った心境でその日を迎えた。
一日目は「物理」「幾何」「修身」の三課目だった。夜を徹しての猛勉強の結果は、果たしてどう出るのだろう。その日終わった時点での反省点は、満足できる答案には今一歩といったところで、聊か焦りを感じたものである。
一日目のテストを終わり、ほっとして生徒舎に帰っても二日目以降のテストがやはり気になり、帰寮後直ちに本やノートと首っ引きになる始末。とても「一丁上がり!」といった、安堵の気持ちにはなれなかった。
私の良きライバルであった同室の親友三浦君に、一日目の結果はどうであったかと問いただしたところ、彼は余力あり気な微笑を浮かべ「先ず先ず」であったとの答えが返ってきた。
一日目を終わった限りでは、彼三浦は私の一歩前を歩いているような感じを強くしたものだ。従って私は内心穏やかならざるものを感じていたのである。
長谷川室長は、一日目の結果を特に問い質す風でもなく、普段とあまり変わらぬ、淡々とした態度で終始した。
こうした事は、私達の置かれていた異常な環境と心理状態を良く理解し、努めて平静さを装うことにより、後輩を刺激する事を避けているように見えた。私達が全力で試験に立ち向かう事の出来る雰囲気作りを、室長自ら目指しているようにも思えたものだ。
学課の成績もさる事ながら、どうしても心配な点は内務の成績であった。こちらの方は室長、区隊長、寮長の権限下に在る。思い切って室長に問い質したいと思ったりもしたが、一喝される恐れ充分と見て取り止めた。やはり入所早々のあの「駆け足事件」の事が頭から去らず、半ば諦めの心境に苛まれることが多かったのである。
二日目は「代数」「化学」「英語」の三課目だった。私の最も苦手とする教科の並んだ日だった。ところが如何なる訳か、一日目より満足感が強かった。
この日も、帰寮し直ちにその日出された問題を丹念に復習することによって、新たな希望と自信めいたものが湧いてきた事を覚えている。
さて三日目、最終日がやって来た。「国語」「歴史」「地理」の三課目共に、私の最も得意とする課目だった。自信満々の中に、その日のテストを終え、思わず一人で万歳を叫びたい心境だった。
全ては終わった、思えば長い苦悶の日々であった。身体中の力が抜けてゆくような感じがして、正直ほっと安堵したものだ。あの場合の心境は正に「人事を尽くして天命を待つ」であった。予想以上に苦悩に満ちた闘いであったが、連続三日間のテストを終えて、一時的ではあったがみんなで「やれやれ終わった終わった」と開放感を満喫し、悦び合ったものである。
ところが現実は厳しいものがあり、張り詰めていた気持ちの緩みを恐れてか、試験が終わってほっとする間もなく、厳しい日課は終わることなく延々と続けられた。
依然として予告なしの厳しい内務検査もあるし、学課や実習そして教練、武道と続くのである。勿論遊んでいる暇などない。この辺りが、現在の受験戦争と趣を異にするところではないだろうか。
試験が終わって結果を待っている間にも、以前と全く変わらぬ生活が待っていた事には、些か戸惑いを感じた事は確かである。但し、息抜きが全く無かった訳ではなく、舎監や寮長達の配慮がいろいろ見られたものだ。その中の一つに、寮単位又は区隊単位で実施される軍歌演習があった。
夕食後生徒舎を出発し、隊列を組みながら造兵廠外を半周、もしくは一周する軍歌演習は、大声を発して歌うので、ストレスの解消に大いに役立ったものである。
余談ではあるが、軍歌練習の途中、廠内の一隅に在った第一女子宿舎の傍らにある土手塀の外を、軍歌を大声で歌いながら通り過ぎようとすると、女子従業員の諸姉が大勢で土手によじ登り、「キャーキャー」はしゃぎながら、下の道路を歩調をそろえて通る元気一杯の私達生徒に声援して呉れたものだ。あの微笑ましい光景も、忘れ難い想い出の一つである。
これから述べる話は、戦後も大分経過した頃、同窓会(相模会)の席上、以前教官の一人だった某老師から直接耳にした実話だ。
それに依ると、養成所生徒の各期に共通する傾向だったようだが、一大関門である選抜試験の合格者は、出生地の小学校高等科では優秀な成績を残しながらも、生家の経済的理由で上級の学校に進学する事を諦めざるを得なかった連中が大半を占めていたということだった。
選抜に当たっては、今でいう内申書に当たるものを予め出身校より取り寄せな参考にしたという話もあったが、それを見た限りでは選抜合格者の小学校における成績は何と、クラスの一、二番の位置に居た者が多数入っていたという話も聞いた。
それが事実ならば、選抜試験で合格の栄誉を勝ち取るのはやはり容易な事ではなく、難関中の難関であったことが伺えるのであった。私みたいに、岩手の三冠の小学校を出てきた者にとっては、思いもよらぬ高嶺の花と言えるものであった事は確かのようだ。
((二)につづく)
六、目指せ!見習いの金字塔(二)
さて五月晴れのある日、廠内第一運動場に於いて恒例の春季大慰安会が行われた。会場は当時約一万名と言われた造兵廠内従業員と、その家族で溢れんばかりだった。
この日私は養成所生徒席の最前列に陣取り観戦していた。次々とプログラムが進む中で、女子従業員に依る借り物競走がやってきた。
競技が始まり、スタート線から飛び出した若い女子従業員が途中でそれぞれ紙片を拾い上げ、一見した一人の女性が養成所生徒席目掛け、脱兎のごとく駆け寄ってきたと思うと、事件でも起きた様な大きな声で、
「誰かあ!養成所の生徒さん!お願します!早く、早くお願い!!」
何と借り物競走の使命が養成所の生徒だったという訳である。女性は早く早くと叫びせきたてているが、こちらは純真無垢な少年達ばかり、相手は清純可憐な乙女、みんな臆してしまったのか遠慮したのか、誰も出ようとしない。見かねた私は意を決してすっくと立ち上がった。
そこは元小学校高等科時代の陸上選手、走る事にかけてはお手のものとばかり、手を差し伸べた相手の女性を逆にぐいぐい引っ張り、無我夢中でゴール目掛けて突っ走った。結果は、相手の招きに応じたタイミングが遅かった為、入賞を逸したのが残念であった。
ところが手を繋ぎ走り終わってゴールに入った途端、二人共紅潮し、私などはいま自分が何をしているのか忘れるほど上気のし通しであった。今想うと、相手の女性は私より二、三歳上だったと思うが、私は十五歳、純情そのものだったのであろう。
あとで判ったことだが、相手の女性は廠内の監督課に在籍する事務員だった。初めて知らない女性と組んで走ったあの日の想い出は、二人で懸命に走っている最中よりも、走り終わって大分経ってからの方が、胸の鼓動が大きかったような気がしたものだ。その日から暫くの間、仲間から冷やかされてばかりいたが、大方は妬っかみ半分だったと想う。
運動会当日の昼食は珍しく折詰弁当に加え、袋入りの菓子等も支給された。生れて初めて味わう折詰弁当の味は格別であった。又、廠内の他の場所に設けられた演芸場や映画会等も催され、その日の慰安会は楽しさを満喫した一日となったのである。
心に汚れが全く無く、純情一路であった少年時代の、甘酸っぱい香りの残るほのぼのとした想い出の一齣である。
私が得意とした体育に関する事で、今一つ忘れる事の出来ない貴重な想い出があるので述べてみたい。
生徒舎前の運動場で、山口舎監はじめ各寮長臨場の下、区隊対抗の綱引き大会が催された時の話である。綱引き競技は何よりも団結の力が問われる場である為、我が十五隊長・長谷川一期生は、区隊(約五十名)全員を集め、力の結集を呼びかけた。
「最初の一回戦で敗退するような、みっともない負け方はして呉れるな!いいか!岩手県人の底力を見せてやれ!」
と、檄を飛ばしたのである。岩手県人と云えば一般には鈍重であり、行動や意思表示のあり方も今一つはっきりしない人種だと言われていたが、何とその鈍重さの陰に、意外な闘争心や団結力が存在することをものの見事に立証した痛快極まる出来事がその日起こったのである。
競技の進め方は珍しく全区隊総当たり競技であり、真に実力を試される場となった。岩手健児は平常見られる引っ込み思案などかなぐり捨てて真剣に戦った。その上、一旦相手サイドに引かれても、次は倍の力で引き戻すという独特の戦法を用いた。
これが意外と功を奏し、一戦、二戦と勝ち進んでいった。傍らで必死の形相で応援を続ける十五区隊の室長達、この先輩達の期待に応えるべく、とにかく我を忘れ一致一丸皆埃にまみれ、汗にまみれて頑張った。
そしてその結果は予想を大きく覆し、我が十五区隊が、何と一区隊から二十区隊に至る全区隊に勝利するという、稀有の優勝の栄に輝いたのである。
佐々木寮長は固より、長谷川区隊長以下各室長が小躍りして喜んだ事は云うまでもない。総当たり競技であるから、その疲労の烈しさもさること乍ら、精神力の強靭さには吾が事乍らみな驚いた様子だった。
圧倒的勝ち方で途中まで進み約半数の区隊を壊滅させたあたりでは、我々新入生の側よりも、応援団である五人の室長達の方が、最早狂喜の状態だった。
最後に残った相手を破り、文字通り王者となった瞬間は、区隊長、各室長、週番生徒に至るまで、応援団の方が皆狂喜乱舞の形であったのだ。
日頃厳めしい顔ばかり見せる室長達先輩からは、あんな歓喜の姿など想像もつかない事だった。長谷川区隊長も余程嬉しかったと見え、競技が終了した後に自寮の前で区隊全員を前に、
「良く頑張った。まさかここまで勝ち進むとは・・・全く予想もしなかった事だ。十五区隊の名声を、かほど高めて呉れた事に心から感謝する。これからも、あらゆる面で岩手健児の名を高めてくれるように。ご苦労だった。あとは入浴し身体をゆっくり休めるように、解散!」
と、珍しく終始にこやかな顔で、謝辞が述べられたのである。
この日以来、普段言葉の訛りやら行動などでともすると蔑みの目で見られがちだった岩手県勢に対する周囲の目が、驚くほどがらり変わっていった事は勿論で、我々の方も心の中では溜飲を下げる思いで過ごすことが出来たのであった。
因みに努力の甲斐なし、一勝も出来ず敗退してしまった他の区隊の中には、
「一度も勝てなかったとはどういうことだ!区隊単位の、団結力を試される大事な試合というのに、オール負けするとは何事だ!精神の支えが弛んでいるとしか思えぬ!」
と。きつい叱責を受けた上に、厳しい罰則をも科せられたという話もあった。
ともあれ、この日昼食後に始まり延々五時間にも及んだ第一生徒舎の綱引き競技会では、「東北岩手の快男児、ここにあり!」と、内に秘めた底力を遺憾なく発揮し、その存在感を大いにPRできた、嬉しい嬉しい出来事であった。
牛の如き鈍重な岩手県人気質の中にも、秘めたる闘魂と、並々ならぬ団結力が潜んでいることを、内外に示した快挙であったことは、疑いのない事実であった。
(平成四年三月五日 記 つづく)
五、目指せ!見習いの金字塔(一)
技能者養成所に無事入所を果たした後の三ヵ月間は、全員が一応養成所工員課一学年としての処遇を受けていた。したがってその間に受講する学課は八課目(修身、国語、物理、歴史、数学、英語、化学、兵器)であった。
ところが三カ月経過後実施される難関の選抜試験に合格し甲種工業学校並の見習工員科に編入されると、これが一挙に二十課目となり、並大抵の勉強ではついていけず置いてきぼりにされる恐れは充分にあった。
つまり遅かれ早かれ、「落第」という極めて不名誉なレッテルを貼られる事が予想されていた。
選抜前の三ヵ月間は、一週の中で三日が学課・残り三日が実習といったパターンであった。実習は約千名の収容能力を持つと言われた養成所の教育工場で、心技共に優れた指導員の下で仕上げ、旋盤、フライス盤、製図など、一応一通りの初歩的な実習を受けたものだ。
一日を通じての行動のパターンは全て軍隊式、厳正そのもので終始緊張を強いられていて、少々苦痛でさえあった。服装一つにしても、例えばボタン一個外れていてもすかさず注意が飛んできた。つまり四六時中が常に勉強であり、修練の場であった。
一日の中でも楽しみな入浴は毎日決められた時間に各区隊毎に揃って入るのであるが、「やれやれ」と開放感を味わうこの場合でも、大浴場の中に上級者が居たりすると、先ず上級者の背中を流した後、自分の身体を洗い流す作法になっていた。この様に一瞬たりとも油断は許されなかったのである。
夜八時三十分、自習時間が終わり十分後に点呼が行われるのだが、消燈喇叭の鳴り響く九時までの二十分間、この時間は自習時間を終えてほっと一息どころか時には魔の時間に変化する事もあった。
点呼が終わると、決まったように毎晩訓示があった。大抵各室長が行うのであるが、勿論、その間は直立不動の姿勢は崩せなかった。訓示の内容は決まってお説教が主であり、何よりも精神教育が主眼であったように思う。
三年生の室長が、後輩の一年生を前に理路整然と話すその態度は立派そのものであり、年齢弱冠十七歳とは思えぬ見事さであった。その精神構造の強さと、たゆまぬ努力に対しては、只々感服の外はなかった。
さて、養成所の教練や武道は、その厳しさに於いて定評があった。生徒隊長山田大尉をして、
「養成所の教練は、その厳しさに於いて日本随一と言われた陸軍幼年学校に比べても、決して見劣りしない」
とまで言わしめたほどだったのである。
訓練教官の顔触れは、訓育掛長に、眼光の鋭い髭の根東少佐。見習工員隊長は造兵廠内の張り切り三大尉の一人・山田魁大尉。養成工員科隊長は、歴戦の勇士・宍戸七郎中尉。青年工員科隊長は三井中尉といった具合であり、直接指導する教官達は、現役の曹長、軍曹クラスの下士官及び予備役の下士官クラスで占められていた。
以上、正に錚々たるメンバーが、さながら初年兵に対する厳しい訓練ぶりを発揮したものである。生徒の大半はそれぞれ故郷に在りし頃、我が儘一杯で育ってきた者が多かったと思うが、そうした連中にとってはかなりきつく、やりきれない気持ちにさせられた事は確かだと思う。
然し養成所の教育方針は、つまり強い訓練を通じて人作りをし、国家の為に心身を投げ打って奉公せんとする、憂国の士を養うことにあったのだろう。
ところがその途上、いろいろとマイナスの面も現れ始めた。しきりと両親を恋しがりうつ状態になる者、厳しさに耐えかねて何かに頼りたい気持ちになる者など様々であったが、そうしたいろいろな感情を押し殺し、同輩同士で励まし合うこともあった。
ところが、中にはノイローゼ現象を起こす者さえ現れ始め、養成所当局の頭を悩ます事にもなった。
成人の域に達するのはまだ時間のある弱冠十五歳の少年達に対する訓練としては、少々厳し過ぎると思われる面もあった気もする。然しながら、その事を上申するなんて考えも及ばない環境の下にあったのである。
さて、入所し一カ月経過した四月末、待望の生徒手当金が支給された。手当金は、ちゃんとした給料袋に入っていて、私が生まれて初めて味わう棒給受領の感激であった。
総支給額二十七円也。そこからいろいろと差し引かれ、現金支給は九円七十二銭となっていた。控除された中味は、共済組合(共済年金)一円五十八銭。健康保険掛金五十二銭。国民貯金五円。食費六円六十三銭。献金二十七銭等々であった。
支給された現金九円二十七銭の中から、少々無理して五円を貯金したが、これは少しでも貯めて家族に小品なりを買って送りたいとする気持ちが強かったからだ。
一年生の生徒手当二十七円であるが、まだ岩手に在りし頃、小学校に助教と称する女学校出の先生が居たが、教師と言ってもそのような先生達の給料が、最初二十八円程度で、一、二年経過した頃でも私の記憶では何と三十五円程度だったと思う。師範学校出身の訓導と称した一人前の先生ですら、初任給が五十円乃至六十円程度だったのである。
因みに二年生に進級すると当然手当金も増額となり、基本給が三十四円から四十円程度となる。更に三年生に進級すると基本が三十九円となるのだが、これはあくまでも基本額であって、三年生の後半は、直接生産に寄与することもあり、八十円から百円に達する事さえあった。
このような事を今考えると、如何に私達が恵まれた存在であったか想像できようというものである。実際に三年生当時受領していた金額は、村の小学校校長とほぼ同額であったと聞いたが、今振り返ってみると信じられないほどの好待遇を受けていた事になる。
入所して初めて待望の外出許可がおりたのは五月中旬だったと思うが、生家の近い神奈川出身者等は特別に帰宅も許されていた。遠方出身者は、大体が原町田か八王子方面に嬉々として出掛けたものである。
私達地方出身者にとって原町田と八王子の街は大変懐かしく、外出の度訪れた場所であり、疲れた心を癒して呉れた街でもあった。
最初の外出許可の日、早速私は実兄の下宿先である渕野辺の印鑑屋を初めて訪問した。兄はその店の二階を借りていた(現在でもこの判こ屋さん健在である)。兄と逢ったのは四月の上京時以来だったので、田舎の事や、生徒舎生活のこと等にふれ、話がはずんだものだった。兄は私の姿を見て言った。
「大分鍛えられたとみえ、養成所の生徒らしくなったなあ、勉強の方も頑張って、間近に迫ってきた選抜試験には必ず合格して、田舎の親を喜ばせてやって呉れよ」
そう励ましてくれたのである。
あの時、私は十五歳、兄は二十歳であったが、私は内心、この兄の為にも選抜テストは何としても合格を果たさなきゃと自覚したのである。
ところでその日の夕刻、東京や神奈川出身者の入寮している寮では、久しぶりに生家に帰宅を許された生徒達が続々と帰寮する姿が見られた。
ところが、家族との対面で気が緩んだのか、帰舎した後、腹痛や下痢症状を起こす者が多発したのである。調査の結果、殆どの者が明らかに久々の帰宅で種々の物を食べすぎた結果だと判明。寮長や区隊長に大目玉を食った挙句、次なる罰則を言い渡されたのである。
「遠方から来ている者を見よ!それぞれ外出しても、誰一人その様な患者は出ていないではないか!節度をわきまえぬ不心得者は、次回の外出を禁止する!」
というわけで、きつい罰則を受ける羽目になったとの情報を耳にして、気の毒に思ったものだ。
養成所生徒を志した以上、誰もが望んで止まなかったのは「見習工員科の金字塔」であった。一般に見習工と聞けば、普通ならば工場等の一人前にはほど遠い見習中の工員さんとか、職工さんを連想すると思うが、養成所の見習工員科は、呼び名は同じだがそれとは少々異なる存在であった。
選抜試験に依り、将来造兵廠に於ける地位、昇給昇格の点で大変な差を生じる事になったのである。勿論このクラス「見習工員科」を卒業すると、前にも述べたように甲種工業学校卒業同等と見做された。当時官費養成の機関は決して多くはなかったと思うが、その中でも陸軍技能者養成所卒業生は破格の好待遇を受けていた事は確かだった。
然し、私共卒業生にとって栄えあるこの制度も、昭和二十年(一九四五年)八月、日本帝国の敗戦と共に消滅の形となった。
但し幸いなことに、学歴の点で救いの道が拓かれたのである。即ち厚生省援護局長名で公布された書類に依ると、
「旧陸軍技能者養成所、見習工員科を卒業せる者は、昭和二十二年、文部省告示第十六号の指定に準じ、旧制中学校(五年制)卒業と同等以上の学力あるものとして、取り扱いを受けるものであることを証明する」
との卒業証明書の発行を受ける事が可能になったのである。ところが、私がこの制度の存在を知ったのは、戦後も二十年以上も経た昭和四十年、養成所卒業生に依る同窓会(相模会)に初参加した折であった。
従って長年に渡りその恩恵に浴することもなく、私は就職等で大変な損失を蒙っていた訳である。残念の一言では済まされぬ悔しさが未だに消えずに残っている。
さて話を元に戻す事にするが、先に述べたように選抜試験の予備テストが、幸いなことに比較的順調に終わり、先ず先ずの成績を収めたが、その安堵感に水を差すような我が室長の言葉。
「この一号室からは、選抜の合格者はおそらく無理だろうよ」
過日のこの言葉は胸に突き刺さったままだった。特に内務の成績の点で例の「駆け足事件」の事が尾を引き、ともすると自信喪失に繋がることにもなった。
予備テストの場合は、学課の他に実習の成績も加味された。その上教練、武道のテストもあった。厳しい眼差しをした教官から叱咤され続けながら、懸命に仕技に打ち込めば打ち込むほど身体が硬直し、思うように動けず困惑したものである。
しかし私はどちらかと云うと、教練は絶対の自信を持って臨んでいた。
難解な勉強、厳しい教練を終え帰舎してほっとしていると、「週番生徒集合」を告げる喇叭(ラッパ)の快い響きが伝わってきた。生徒達が何よりも楽しみにしている、お菓子類の配給があるのだ。
各寮に二名ずつ配置されている先輩一期生の週番生徒が、生徒舎事務室前に集合し、配給物を受けて来るのだが、「週番生徒、手帳持って来い」と聞かせるこの喇叭の響きは今もって忘れる事の出来ない、温かく楽しい想い出の一つだ。
(平成四年三月五日 記 (二)につづく)
四、友情への代償
生徒舎生活も二カ月ほど経過した頃だ。寮生活をエンジョイするどころか相変わらずのがんじがらめ、心に全く余裕のない生活が続いていた。
ところが、張り詰めていた糸がとうとうプツリ!と切れる事件が起きた。
それは、私の新入生時代に受けた唯一の制裁を受けた事件であり、親友三浦との共同失策劇であった。
夕食後の自由時間を終えると、七時から八時三十分までの自習時間が始まる。物音一つ立てず、生徒舎全体が静まり返る時間帯だ。それが終わると、十分後には点呼(夕礼)である。
その週の交替制の部屋取締生徒に当たった者は、部屋毎に全員を廊下に整列させ、区隊長に各部屋の状況を報告するのである。
「第○○区隊、第○号室、総員○○名、事故なし、現在員0名、その他異常有りません」
等といった具合だ。
問題はその後消燈時間に至るまでの時間で、これが魔の時間であった。所謂恐怖に値するしごきの類は夜の点呼後のこの時間に集中して行われる傾向があったのだ。
その頃、点呼終了後に毎日行われる軍人勅諭奉誦では、猛烈な勉強の結果殆ど丸暗記の形であったので、私も同輩の三浦生徒も無事切り抜ける事が多く、しごきを受けることは皆無に等しかった。
ある夜、勅諭の一項の奉誦を無事終え、室長の許しを得て就寝前の歯磨きの為、二人で廊下の端に在る洗面所に向かった。途中四号室前を通ったが、丁度その時、四号室の新入生達が廊下に立たされたまま、室長にしごかれていたのである。
やはり勅諭奉誦がスムースに運ばず、同じ項を繰り返し奉誦させられていた。
室長に声高に「止め!駄目だやり直せ」と怒鳴られるのだが、極度の緊張感も手伝っているので、中々思うように口が運ばない。
然もそれが、ずうずう弁の岩手訛りで繰り返すものだから、何とも可笑しいのである。
厳正な勅諭奉誦が訛っていたのではいただけない。そばを通った三浦と私は、とうとう我慢が出来ず、悪いと知りつつ口を押さえながらつい「くすっ!」と吹き出してしまった。
と、その時傍らで大きな声がした。
「そこの二人待てえ!室名と姓名を述べよ!」
四号室の室長であるK三年生が、仁王様のような顔でこちらを睨んでいるのだ。
「はっ、はい!第一号室 Mであります」
「同じく、三浦であります」
「お前達は今笑ったが、何が可笑しい!笑った理由を申してみよ!」
私と三浦は当然の気合いに逢い、怖ろしさで身体が硬直したままで返事も出来ない有様だった。
「同輩者が難しい勅諭を覚えようと懸命に努力している姿が、そんなに可笑しいか!お前達には同情心というものがないのか!他人を笑うからには、勅諭は全部暗誦出来ているんだろうな!よし!それじゃ『信義の項』を今ここで述べてみよ!」
私達二人は、直立不動の姿勢で立ち竦んだままであったが、命令された「信義の項」の勅諭奉誦の方は幸い完全にマスターした後だったので、スムースに述べる事が出来た。
ところがその時、異常な気配に気付いたのか、我等の室長でもある長谷川区隊長が様子を見に寄って来た。
四号室のK室長より経緯を聞くなり途端に怖い顔になって、
「二人とも一号室に戻れ!!」
さあ大変、区隊長の顔はすでに真っ赤だった。一号室に戻ったらいきなり強いビンタが飛んできた。(私が生徒時代ビンタを張られたのは、後にも先にもこの一回限りである)
「この馬鹿もんめらぁ!よその室長に気合いを入れられるなんて、一号室全員の恥とは思わんのかあ!ようし今夜は二人に徹底して反省してもらう事にする。外に出ろ!」
二人は恐れ戦きながら、寮の玄関から暗い外に出された。次にどんな厳しい制裁が待っているのかと心配だったが、
「二人共、止めえの声が掛かるまで、駆け足で寮を回れ!途中歩いたりしたら承知しないぞ!反省心が湧くまで、走り続けるんだ!」
室長は玄関前に仁王立ちになって怒鳴り散らしていた。私達二人は、一周二百五十から三百米はあろうと思われる第八寮の周囲を駆け足で回らされる破目となったのである。
外に出て、最初はどんなきつい制裁を受ける事になるのやら、ひどく心配だったが、駆け足程度でよかったと内心ほっとしながら走り始めた。ところが、時間が経過するにつれ、その考えが全く甘かったことに気付き始めたのである。
高等小学校時代に幸い陸上の中、長距離走の選手経験があった私は、寮の三周や五周は元より問題にもしなかった。ところが相手の三浦は、三周したあたりから「ぜいぜい」といかにも苦しそうに見え始め、顔の表情も苦悶の表情に変わりつつあった。
まあ、五、六周もしたら当然「止めい!」の声が掛かるものとたかをくくっていたのに、何と十周回っても、玄関前で腕組みの姿勢のままで監視を続けている室長の口から「止めい!」の号令は聞こえてこなかった。
汗だくで走り乍ら、この姿を親が見たらどう思うだろうと考えたら、急に胸に込み上げてくるものがあり、悔しいやら情けないやら、更に苦しさも手伝って、とうとう二人共泣きべそ顔で走る始末となった。
玄関前の室長には不覚の涙を見せぬように走り抜け、暗さのある場所では「おいおい」と声を上げ泣きながら走るといった具合だった。想い起こせばその時の私はやっと十五歳に達したばかりの少年だったのだ。
何周回った時だったろうか、すでに回数は頭から去り、必死の思いで走り続けていた。特に三浦は殆どダウン寸前の状態で、正に精神力のみで身体を支え続けている状況だった。
ところが、見張っている室長は情け容赦も有らばこそ、目の前に私達が現れると「遅い!もっと速く走らんかい!」と怒鳴っているのみ。万止むなし。スピードを上げようと思ったその瞬間!側を走る三浦がよろめいたかなと思うと、ばったりその場に倒れてしまったのである。
私は驚いて駆け寄り抱き起したが、その時の三浦は、再び走れる状態ではなかった。思い余った私は、室長に申し出た。
「室長殿、お願いがあります。自分が三浦の分も走ります。だから三浦はここで許してやって下さい」
ところが三浦は三浦で、
「いや大丈夫です、このまま走らせて下さい。二人一緒に走らせて下さい」と、苦しい息の下で叫んでいるのである。
言われた室長は暫く無言であったが、
「よし!今夜はここまで!中に入って就寝して良い。今回は二人の友情に免じて許す事にするが、二人共よく聞け!団体生活に於いては、仲間との切磋琢磨が如何に大切なものであるか、よく肝に銘じておくことだ。
同僚の失敗とか苦労を笑うやつは、何時かは人に笑われる立場に立たされるぞ!四号室の者だって同じ岩手県人ではないか。普通ならば笑えるはずはないぞ。今夜の事は絶対忘れるな、そして二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。いいか解ったな!」
と言い残し、さっさと自室に引き揚げていった。当然のことだが、私達二人はその夜の失態を心から反省したのである。
やっと許しが出て涙に濡れた顔と汚れた足を洗面所で洗い流し、尚ふらふらの状態で自室に戻った。すでに消燈時間は過ぎていたが、同室の仲間はみんな布団の中にもぐり込み、ひっそりと静まり返っていた。
室長と言っても、最上級生の三年生、殆どが十七歳、現在の高校二年生と同年齢だ。この年齢にして、すでに下級生を教え鍛える術は会得していたように思う。
説諭も堂々としていて、指導者としての立派な態度には、ほとほと感服させられたものだ。あの時私はふと思った。自分が無事選抜に合格し、将来最上級生になり得たとして、果たしてこんなに立派になれるものだろうかと。
この事件以来、私と三浦君は益々親交の度を深めていったことは確かである。
私と親友三浦、二人だけの切ないほろにがい物語はこれで完結だが、この小事件は相模に在りて遠く父母の愛を想い、初めて涙した貴重な体験となったのである。
しみじみと、心に染み入る想い出である。
(平成四年二月末日 記)
三、厳しい新入生教育(二)
さて生徒舎に入寮し荷物の整理も終わりほっとしていたら、全員に官給品である制服正帽、略帽等が支給になった。同時に翌日からは私服の着用は一切禁止との通達もあったのである。
新品の制服を身に着け、中にははしゃぐ者、はにかむ者様々であったが、その瞬間、新入生は一様に緊張感を身体一杯に感じた筈である。制服に身を包むと、陸軍の軍属生徒になれたんだという実感が湧いてきた事を今も鮮明に想い出す。
服装が整ったところで、早速廊下に整列、挙手の敬礼の動作や、言葉遣いの指導を先輩である室長から受けた。敬礼の動作一つにしても中々大変であったが、それにも増して言葉遣いの指導には、本当に苦労させられたものだ。
何せ、音に聞こえた東北訛り。東北弁が標準語だと錯覚しかねない連中のみである為、指導する側の室長達の苦労もさることながら、標準語とやらを教え込まれる側の我々の方も正に難行苦行、涙ぐましい努力さえみられたのである。
中でも「シとス」「チとツ」等に関しては、指導する側の言い分では全く区別が付かないと言うのだ。
然し、使用している側から言わせて貰えるならば、この世に生を享けて十四年、その発音で立派に通用してきたし、自分ではちゃんと区別して言っているつもりなのに、今更「区別がない!」と怒鳴られても、どうしてようもない事だと、つい焦りを感じてしまうのである。
その一つの例だが、養成所生徒は常識として自分を指す言葉として「俺」とか「おらあ」では全く通用せず、軍人に即した呼び名で「自分」と言わなければならない。ところが、何べん指摘を受けても「ジブン」にならず、つい「ズブン」と訛ってしまうのである。甚だしきに至っては、「ズブン」ならまだしも、緊張の余り「ズボン」になってしまう者もいて、教える室長もつい呆れて苦笑してしまう場面もあったくらいだ。
東北出身者にとっては笑い事ではなく、言葉の関門こそが最大の悩みであり、上京して初めて突き当った、大きな大きな壁だったのである。
亦、自分より上級者に対しては全て「殿」を付して呼ぶように指導された。「○
○さん」ではなく、「部屋長殿」「区隊長殿」「寮長殿」といった具合だ。ところが何故かスムースに「殿」が口から出ず、「部屋長さん」とか「区隊長さん」
等と呼んでしまう者も居て、相手から大目玉を食らい、怒鳴られる事もしばしば見受けられた。
入所した頃は、軍隊で言うと全員が初年兵同様の扱いであった。帽子には一年生を表す白線が一本巻かれ、新入生全員が平等の扱いを受けたが、新兵教育に準じた厳しい期間(入所から三ヵ月)が待っていた事は、詳細に知らされていなかった。
然し、その三ヵ月間が私達新入生にとっては将来を賭ける事になる、最も大事な期間となったのである。
新入生教育期間中は唯夢中で、古里の親兄弟に思いを馳せる事の出来るのは、やはり消燈ラッパが鳴り渡った後の就寝時間に限られていたように想う。
連日連夜、オール陸軍式の厳しい指導、その辛さに耐えかねて、枕を涙で濡らす者は決して私一人ではなかったように想う。
郷愁の涙を誘う陸軍の消燈ラッパは、「新兵さんは可哀相だねー!また寝て泣くのかよーーーー」と鳴る。このメロディーは、心を静める効果を考えての事かと思われるのだが、静かで然も哀調を帯びているので、聞いているだけでつい物悲しさを感じたものだ。
古里の家族を想ったり、又、厳格な生徒舎の中に閉じ込められている不自由な身を思ってみたり、時には意地悪な上級生の私的制裁に対する恐怖と無念さを思うと、一年生にとって哀調の消燈ラッパは正に涙のラッパでもあった。但し翌朝の起床ラッパの音に全て掻き消され、厳しい現実に戻らされたのである。
想うに生徒舎に於いて、教える側の先輩室長、区隊長、週番達の苦労も大変なものだったに違いない。指導する立場としては、努力と挫折と困惑の積み重ねであったろうと、今更乍ら先輩諸兄には畏敬の念を強くするものである。
その難しさと大変さは、私達が三年生に進級し逆に教える立場に立たされた時、改めて徹底的に思い知らされた事でもある。
さて上京して三日目、四月六日は養成所の入所式であった。三千名の収容能力があった大講堂に、今は亡き造兵廠長・岡田資陸軍中将を迎え、厳正な中にも盛大に行われた。
あの日、岡田中将の励ましと慈愛の籠った訓話を耳にした私達は、五尺の躯が燃え上がるような異常なる感激を味わった。
又、養成所長・門司昇一陸軍大佐の訓話も温情溢れんばかりで、正に吾が子に注ぐ暑い愛情そのものであった。この日の入所式は感激も一入で、我々にとっては生涯忘れる事の出来ない、最も印象深いものになったのである。
因みに、養成所生徒全員から敬われ慕われ続けた所長・門司大佐は、軍人生活四十二年間、終戦の年昭和二十年九月には退役となり遥々故郷の山口県柳井市に帰還され、静かに日本の復興を見守っておられた様子だったが、昭和三十五年九月四日、残念乍ら七十二歳で病没されたと聞く。
再会の望みが全く絶たれてしまった事は、一人私のみならず全教え子の痛恨事となった事は言うまでもない。軍人らしく厳しさの中にも慈父が吾が子を労わるようなあの優しい眼差しは、今もなお私達の瞼の底に焼きついたままである。
所長・門司大佐の薫陶を受けた私達は、本当に幸せであったと思っている。
入所式の翌日からは、早速養成所教育棟の教室に於ける諸学課、そして教育工場での実習等が始まった。学課の難解さもさること乍ら、日を追うにつれ生徒舎に於ける起居動作などの精神教育、加えて教練、武道等々、厳しさが一段と加わり、中には家恋しさ、親恋しさのあまり不覚の涙を見せる者も現れ始めていた。
私もまた厳しい訓練の明け暮れに、思い起こすのはやはり遥かに遠い古里の家族の事のみだった。辛く苦しい事に逢う度に、望郷の念に駆られた事は言うまでもない。
然し乍ら遠い岩手の空の下で厳しい生活にじっと耐え乍ら、私の成長を夢見て居るであろう両親の事を思うと、どんな辛さにも耐えて何が何でも頑張らなければと、心に誓ったものである。
そんな中でも食事の楽しさは何処に於いても変わらないものだ。生徒舎の食堂は先に述べたように、一度に千名の食事が可能な場所で、そのだだっ広さには感嘆するほどだった。
食事前、三年生週番長の号令の下、新入生全員が一斉に唱える「食前の感謝の言葉」は広い食堂内に響き渡り、荘厳な感じさえ受けたものだ。
食事の内容は、現世の如き日本人の奢ったグルメの口からみれば如何にも粗食で決して美味とは言い難い面があったと思うが、然し当時とすれば内容の濃い物で、栄養のバランスも良く、育ち盛りの少年達の胃袋を満たして呉れたことは確かだと想う。
一方生徒舎内では、少しも油断の出来ない厳しい生活であっても、若干その暮らしに慣れてくるといろいろと予期せぬ問題が発生するようになっていた。その大半は一寸した気の緩みから発生する失態であり、その都度上級生から気合を入れられる状態であった。
選抜の本試験を前にして臨時テストが迫る頃になると、生徒は夫々全てを忘れ、猛烈に勉強を始めた。夜中にこっそり起きて廊下の電灯の明かりを頼りに勉強したり、反則すれすれの手法を用いてよく勉強したものである。
私の場合中間テストの結果は、思ったより良い成績を得てほっとした事を覚えている。同室ではやはり三浦君が優れていたように想う。ところが、我が長谷川室長が、三浦と私を呼び言った言葉は、
「第一次試験で良い成績を取ったからといって、安心するのはまだ早いぞ!本テストはこんなものではない!まあこの部屋からは選抜の合格者は一寸無理かもな!でもやるだけの事はやってみるんだな!」
長谷川室長のこの言葉には、正直なところ本当に失望したものだ。やはり我々の力では見込みはないのかと、すっかり落ち込んでしまった事は言うまでもない。
三浦も私も、完全に馬鹿にされた形の言葉だと思ったら遣る瀬無い心境になった。折角やる気を起こし、懸命に勉強に取り組んでいるのに、その意欲を阻害するような室長の言葉には理解し難いものがあった。
あの賢明な長谷川室長が、何故あんな言葉を口走ったのか、真意は未だに不明のままである。然し乍ら、三浦も私も、敢えて善意に受け止める事にした。
「選抜試験は難関中の難関だ。心して臨むように」という戒めの言葉だと解し、自重自戒したことは言うまでもない。
それでも私は、あくまでも目指す最高位には何としても合格して見せるぞ、との意気に燃えていた。然し乍ら、時折室長の言葉がよぎり、なんとなく疑心暗鬼の思いに苛まれる毎日が続いていたのである。
生徒舎に於いては時折抜き打ち的に内務検査が実施され新入生達を慌てさせたものだが、押入れの中の整理状況、寝具や下着類の清潔度チェック、金銭出納帳の記帳状況等々がチェックされ、結果は全て内務の成績として記録されていた。
その他にも、舎内に於ける日常の行動、礼儀作法、言葉遣い、同僚との交友関係、不寝番に於ける勤務態度等々、これらはみな来るべき選抜試験に於ける合否決定に関わる有力な資料とされたとの情報もあった。
学課の成績が如何に優れていようとも、それだけでは合格の可能性は薄かった。学課、内務、実習、教練、武道、身体強健思想堅固。何と、三拍子どころか六拍子も七拍子も揃わないと、合格の栄冠は得られそうになかったのである。
そうした難関をクリアして合格を果たした先輩達は確かに立派な人たちが多かった。学課の成績が優秀であり乍ら他の分野が振るわず、不合格となり涙をのんだ連中が現実に存在したのである。
そんな訳で、生徒舎生活は一時たりとも油断の出来ない世界で、常に緊張の連続でもあった。人間はたまには「ぴーん」と張り詰めた緊張感を味わうことも必要だと考えるが、四六時中緊張の連続では、張った糸に余裕がないためプツリと切れてしまうことだって起り得るのである。生徒舎内ではそんな事態もぼつぼつ見え始めていた。
一方そうした厳しい生活の中で、私達の心を文句なしに和ませて呉れたものがある。それは、アンパン、スアマ、パイン缶等の配給であった。
田舎の生活では戦時下とあって中々口に入る代物ではなかった。造兵廠の中でも養成所生徒は特別恵まれていて、その様な配給物がある度、日ごろの辛さも忘れ大喜びで食したものである。
相模造兵廠は「アンパン造兵廠」と異名を取ったほど、何故かアンパンには恵まれていた。
何か催物があった場合は勿論のこと、生徒舎の新入生時代は週二回乃至三回程度配給を受けた記憶がある。戦時の影響を受けて、ぼつぼつ甘みが不足気味の生徒達を大いに喜ばせたものだ。
但しそうした配給品も残念乍ら二年生の後半あたりから次第に姿を消してゆき淋しい思いをしたが、戦局が厳しさを増す一方の状況の中ではアンパンどころではなかったのであろう。
眠っている時だけが極楽の生徒舎生活であったが、「アンパン」「スアマ」そして「パイン缶」のあの甘い甘い美味は、厳しい新入生教育をほんの一時だけでも忘れさせて呉れる、何かがあった事は確かである。
(平成四年一月二十五日 記)
二、厳しい新入生教育(一)
「相模」・・・・旧相模陸軍造兵廠にかつて在籍した地方出身者は、限りない懐かしさと親しみを込めて、一様にこう呼ぶ。
特に同廠内に設立されていた「技能者養成所」で学んだ者にとっては、人間を形成させられた、生涯忘れえぬ土地となったことは、否めない事実である筈だ。
当時の相模造兵廠は国鉄横浜線渕野辺駅南東部一帯の周辺で、広大な雑木林と畑が延々と続き、駅周辺を除き民家は数えるほどしか無かったように思う。
現在の相模原駅周辺や国道十六号線界隈の目を見張るような発展の状況を見る時、昔の相模野を知る者にとっては、まさに驚異に値すると云って過言でなないほどだ。その昔誰がこの現実を想像できたであろうか。
当時、若干十三、四歳の少年達は産業報国の一年に燃え、故郷を遠く離れこの地の相模陸軍造兵廠、技能養成所に集結した。
生徒舎に於いて多くの仲間達と苦楽を分かち合い乍ら起居を共にした事は、今や遠く過ぎ去った昔の物語に過ぎないかも知れないが、感受性の強い少年時代に体験した様々な事を想い起こし、明日への心の支えとなれば幸いと思い回顧することにした。
さて、当時は現在の相模原駅がまだ開設されておらず、私達岩手県民勢は渕野辺駅で全員降りる事になった。駅頭に実兄が出迎えて呉れたので、其処からはみんなから少々離れ徒歩で造兵廠内を南北に通り抜け、建設したばかりの新生徒舎まで長い道程を歩かされた形となる。その間、兄の説明を聞き乍ら、廠内を見学しながら歩いた。
林立する工場群と広大な敷地には本当に驚かされたものだ。乾(北)門から再び廠外に出たら、目の前に新築間もない新生徒舎が出現した。後に第一生徒舎となるこの建物は、優しく新入生達を迎えているように感じたものだが、私をはじめ他の新入生達も生徒舎辿り着き皆一様に安堵の色を見せていた。
以後私は、二年生修了までこの生徒舎で過ごす事になったのである。周りが広々としたさつま芋畑の中に立てられた第一生徒舎は、私達第三期生を迎え入れるため木の香も新鮮で、特に印象的だったのはペンキの匂いが強烈で建物の内外に充満していたことだ。
建物の南側一帯にだだっ広い運動場が設けられていたが、其処では約千名の朝の点呼体操等が毎朝行われた。其の外、必要に応じ教練、武技、陸上のスポーツ等に最大限に利用されたものである。
中央の大きな建造物の階下部分に千名を収容する大食堂と生徒舎事務所があり、食堂の奥に大浴場があった。二階部分が講堂となっていたが、ここでは精神訓話、詩吟練習、ハーモニカバンドやブラスバンドの練習、更に学期末演芸大会等が行われたものである。
その中央の建物を挟んで東西両側に、夫々五棟の寮が、鳥が羽を広げた如くに整然と並んでいた。
神奈川県高座郡相模原趙小山宮下
相模陸軍造兵廠技能者養成所
第一生徒舎第八寮第十五区隊第一号室
上級生に案内され入ったのがこの部屋であった。何とも長く、然も厳めしい名称だろうかというのが実感であった。
新入生は出身県別に入寮したが、私の所属する第八寮は階上が岩手県勢、階下に青森県勢が入った。同じ東北、然も隣の県であったので気安い面はあったが、強烈な津軽弁にはいささか参ったものだ。
私の入った一号室には、二戸郡出身者だけ十名入った。室長は神奈川出身の三年生では長谷川さん。小柄な体躯乍ら色浅黒く、頭脳の明晰さは勿論の事、聞くところに依ると一期生中では十五番の成績であったとか。
この室長、一見温和そうに見えたが、反面底知れぬ厳しさを秘めた人でもあった。長谷川室長は、一号室長と第十五区隊長を兼務しながら八寮二階部分の居住者五十名を統率していたのである。
私の想い出の中の室長は、普段口数は少ない方で冗談らしき事も余り口にせず唯黙々と勉強に励んでいる姿だけが記憶に残っている先輩だった。但し、一旦怒ると他の上級生同様大変怖い存在になった人でもあった。
長谷川区隊長は大変お世話になった方なのに、戦後、同窓会(相模会)でたった一度逢っただけで、平成二年五月十七日、残念乍ら他界された。今は唯、心から御冥福を祈るのみである。
さて話題を元に戻すことにするが、生徒舎に於ける出身県別の寮編成はその後約三ヵ月間続き、六月の選抜試験施行後は大編制替えが実施される事になっていた。
真新しい生徒舎には東北各県(宮城は除く)を始め東京(主として多摩地方)、神奈川、山梨、新潟等々より続々と入寮してきた。
東京、神奈川方面からの新入生は、父兄同伴の姿も見受けられたとか。我々遠方からの入寮組は、そんな光景は一切見られなかったと想う。
生徒舎に到着すると、各自部屋割に従って全て室長指示の下に行動した。出発前生家から送った寝具類は部屋別に届いており、先ずこの荷物を解き押入れの中段に規定通り整然と整理する事から生徒舎生活が始まった。
何と布団のたたみ方、丹前や枕の整理の仕方、私物の整理整頓、それ等は全て生徒舎の内務規定通りにするよう、室長が指導して呉れたのである。こうなると正に軍隊並みであると実感したものだ。
私達が親元を離れ生徒舎生活に入る為には、当然の事として必要最小限度の品々を揃える必要があった。寝具一式、袷、浴衣、下着類(夏冬)、靴、靴下、雨傘、小物を入れるトランクス又は行李、等々であった。
勿論、現在の世ならばそれ等の物品を全部新品で揃えることはいと易き事で、それほど親に負担のかかるものではない筈だ
。
然し乍ら、残念なことに我が家の場合は少々違っていた。全部新品で揃えるという可能性は殆ど無きに等しかった。最悪状態にあった家の経済がそれを許さなかったし、私も望みもしなかったのである。
それでも我が両親は、出来ることなら何とかて形を整えて送り出したいと腐心を重ねていたのである。その心労は並大抵ではなかった。
その中の大物である寝具は、母が新町の某商店に数回足を運び中級以下の木綿製の品を散々値切った挙句、やっと手に入れた。
和服の袷だが、私はそんな物必要ないと断ったが、母は生徒舎入寮心得の中に和服も生徒舎内では着用が許されていると書いてあるので、持参しないと恥をかくことになるから持って行くべきだと言うのである。
然し乍らその調達は至難の技であった。母は思案投首の末、丹前と袷は母が大時にしている和服の中から男物として使えそうな柄を選び出し、仕立て直しをして間に合わせる方法を見出したのである。
浴衣だけは父の古着では可哀相という事で新品を準備して呉れたが、この事で一応一段落の形になったが、ここに至る迄は親は勿論のこと、私としても気持ちの納まらない日が続いたことは確かである。
因みにその折の丹前だけは、生地そのものが使用頻度の多い丹前に合わない品であった為に、生徒舎生活三年間でぼろぼろに近い状態になったが、袷と浴衣は極力大切に扱っていたので、色形共に殆ど変らなかった。
その後三年を経て海軍志願入隊の折に生家に持ち帰ったが、丹前以外の品々は元の姿と殆ど変らなかった為、これを見た母が
「良くここまで大事に使って呉れた」と、感服したほどである。
ところで私が相模造兵廠に持参した見回り品の中で一つだけ豪華な品があったので、是非紹介したいと思う。千名にも達する大勢の新入生、その中で私の持参したものに匹敵するものが殆ど見当たらなかったという代物で、これだけは誰にも負けないぞといった、自慢の品であった。
それは、生徒舎内に於いて使用を許されていた「下駄」であった。
別編で述べた通り、我が父は万能選手でいろいろな技能を身につけていたが、下駄や雪駄作りは本職と言っても良く、得意の分野でもあった。
その父が私の上京を機に特別念入りに作って呉れた、非売品の下駄がそれである。これだけは名実共に他の誰にも負けない高級品であった。
選び抜かれた桐材の柾目を使用し、特別頑丈に分厚く作ってあり、店頭販売用とは全く違った品で特製である事が即判るほどだった。更に亦、これに付した鼻緒もまた贅沢な物で、余程地位の有る人間でないと履けそうもない高級品であった。
一緒に入った同期生の中には羨望の眼差しで見る者も多かったように想う。父の愛情の籠ったこの下駄は三年間履いてもやはりびくともせず、折にふれては相模野を闊歩し続けたことは言うまでもない。
(平成四年一月二十五日 記)
一、門出
昭和十七年(一九四二)私が神奈川県高座郡相模原町(当時町制)に開設されていた相模陸軍造兵廠に入廠し、軍属となるべく志を固めたその第一条件は、何と云っても確かな軍直轄の施設であるという安心感から出たものであった。
更に好条件だったのは、我が家の長兄がすでに正規の軍属として在籍し、服務中だった事が大変有利性を帯びていたのである。
ところが心配性の母は、子供二人を遠方に出す事には反対で、出来れば地元の国有鉄道に就職させたいと強く願っていたようで、その事が一番の良策だと主張し続けていた。
母は、長男のみか二男までも家から出てしまう事には少なからず抵抗があり、「お前は鉄道員になって家に残るんだぞ」と、常日頃から私を説得していたのであった。だが時は正に戦時下でもあり、我が父の意志は微動だにしなかったのである。
「この非常時に、若いもんが田舎でのんびり過ごしている時ではないぞ!」
と、頑として母の要望を聞き入れようとはしなかった。
父の本心は、息子二人を軍属として国家に奉公させる事により、一家の誇りとしたいと願っていたようだ。従って私に対し熱心に上京を勧めていたものと思われる。
当時は、夫唱婦随が優先される世の中であったから、母の切なる願いも、父の意志を変えるまでには至らなかった。当時を想えば、私は今でも母に対し、気の毒な思いをさせたものよと反省の念が残ったままだ。
父の強い進言もさることながら、それにも況して私の状況を決定付けたものは、官立の技能者養成所に対し、私自身の向学心をある程度満たして呉れそうだとの期待と魅力を抱き始めていた事が大切な意志決定に役立ったものと思う。
ところで、私がかつて学んだ陸軍技能者養成所の全貌を、ここで一気に述べる事は至難の業という外はない。従って稿を追い乍ら少しづつ紹介していくことにしたい。
陸軍造兵廠技能者養成所とは、将来日本陸軍の技能者幹部として優秀兵器の製作を念願とし、造兵報告の為、一身を捧げんとする者を養成する機関であった。
参考のため此処に養成所綱領を揚げることにした。
「技能者養成所綱領」
軍の強弱は装備兵器の精否に、又
精強なる兵器の製造は、優秀なる
技術に依る處大にして、優秀なる
技術は、青少年期よりの教育に
負う處領る多し、
是陸軍造兵廠技能者養成所を
設置させられある所以なり。
以上
養成所生徒は学年に相応した生徒手当金を受給しつつ、官費を以て工業学校(現在の工業高校)同等或は、現制度の高専又は大学の工学部程度の学術を習得できる技術員科への道が拓かれていた。
但し私達三期生以降は(昭和二十年春より)技術員科に進学する事は、残念乍ら太平洋戦争悪化の為閉ざされてしまい、そのまま終戦となってしまったのである。
但し、一、二期生の先輩の中の優秀な人達は、厳選の技術員科に進み、若くして判任官待遇となった人もいた。
これ等は、一般中等学校卒業のみに資格では容易に望むことの出来ない破格の登用だった事は確かだ。それも若干二十歳から二十一、二歳で実現出来た人材も現れたという話も耳にした覚えがある。
技能者養成所生徒は、先ず地方に於いて行われた採用テストに合格した者(昭和十七年度採用組は約九百名)それ等を全員生徒舎に収容し、必要な教育を施した。
入所後三ヶ月間は、全て軍隊式の精神教育と徹底した躾教育の上に、民間の中等学校(現高校)程度の学課。更に専用の教育工場での実習、教練、武術等の基礎教育をみっちり仕込まれた後に、運命の選抜試験なるものを実施した。
その結果に依り新入生を三段階に区別したのである。これは新入生として将来の進級、身分の高低をも左右する大きな関門になったことは確かである。
編成替え実施後は、それぞれのクラスに応じた教育を受けることになるのだが、最上位のクラスに合格すると、以後卒業に至る迄の三年間はより厳しい特別教育が行われた。
やがて卒業時には甲種工業学校と同等以上の資格が与えられ、将来に渡りお昇進も早く、造兵廠内の基幹従業員として迎えられることが約束されていた。先輩諸兄の中には現実にそうした処遇を受けて昇進した人達も多かったのである。
生徒と云っても身分は軍属である為、学費・衣服・住居・教科書等殆ど官費で賄われた上、更に生徒として在学中は生徒手当金、賞与まで支給されるという恵まれたものだった。
それだけに、上級校に進みもっと勉強に励みたいとする強い意志がありながら生家の経済悪化に依りその願いが夢と化し望みが絶たれた当時の私にとって、養成所志願は願ってもない進路であるばかりか、正に暗夜に見出した一筋の光明とも言えるものであった。
以上述べた事が陸軍技能者養成所の概要であり、私が志望した理由でもある。
私が国民学校高等科二学年(現在の中二)だった年の暮れは、昭和十六年(一九四一)十二月八日未明、日米の緊張が極度に張り詰めた中、日本海軍のハワイ真珠湾攻撃という悲劇の幕明けとなった。
運命の日米開戦となり、ラジオが報じる戦勝のニュースは、当時十四歳の少年だった私の心を大いに揺さぶり続けたものだ。
年が明け昭和十七年一月二十七日、国民学校高等科卒業を間近にして、地元の職業指導所(現ハローワーク)に於いて、相模陸軍造兵廠技能者養成所の銓衡(せんこう)試験が実施された。近郷近在(同郡下)から集って来た応募者は確か三十名近くいたように思う。銓衡テストは筆記試験、口頭試問、身体検査等で、全て一日で了えた。
数日を経て、職業指導所から学校経由で銓衡テストの結果は合格との、嬉しい知らせが届いた。後日判った事だが、二戸郡下で合格した者は応募者の約五十%弱の十二名、若しくは十三名だったと記憶しているが、私もその中に名を連ねることが出来た事は無上の嬉しさであった。
学校の担任O先生と父は、私の造幣廠行きを積極的に勧めたこともあり、「良かったなあ・・良かった、良かった」と心から喜んで呉れたが、普段病気がちだった母は、寂しげな顔で
「兄・馨に続いてお前も遠くに行ってしまうのか・・・お前は側に置き鉄道員(国鉄)になってほしかったのに・・・」
と、慨嘆を繰り返してばかりいた。
だが父には父の考えがあったのだろう。
「今は時代が違うんだぞ!喜んで出してやれ」と、母を咎めるばかりだったのである。
母は母なりにせめて二男は手元に置きたいと願っていたようだが、父の意向には逆らえないものがあり止むを得ず従ったまでの話で、無論諸手を挙げての賛成ではなかった筈だ。私自身、母の心中はある程度理解しながらも、ここで上京の意志は曲げられないと、上京出発の日を一日千秋の思いで待っていたのである。
従来の小学校が国民学校と改称されて確か最初の高等科卒業生となった私達は、昭和十七年三月二十五日、八年間の学校生活に別れを告げ、卒業式を済ませ希望に燃えながら校門を出たものだ。
前年の十二月八日、日本は太平洋戦争に突入したばかりで、国民は挙って大戦完遂の意気に燃えていた頃だった。長かった学校生活から開放されたからと云って、誰一人自由奔放に生きられる時代ではなかった。
相模陸軍造兵廠技能者養成所に軍属生徒として入所すべく、晴れの門出を待つばかりの私だったが、とうとうその日が来た。
私が上京の為、春未だ浅い古里赤坂田駅を出発したのは、昭和十七年四月三日の事だ。時に十四歳十か月、現在なら中学二年を了えた年齢だ。両親の庇護の元から離れ、遠方で生活するには少々心許ない年齢であった。
我が両親も流石に心配の色は隠せない様子で、細かい事まで何かと心砕いて呉れた事は今でも覚えている。
目覚ましい発展を遂げた現在の交通事情とは全く異なり、何と当時片道十九時間も要した列車の旅であり、遥か遠方の神奈川中央部への長旅だったのである。
出発の日、母は朝からそわそわと落ち着かない様子ではあったが、長男が住んでいる先への旅立ちであったから、幾分心強い面があったことは確かだと思う。
吾が子が巣から飛び立つ晴れの門出であるが、親から見ればまだまだ子供の域を出ていない二男坊の初の長旅とあって、旅先での注意点を幾度も繰り返し述べて呉れたものだ。
四月三日、東北岩手北部の春は四月と云えども春は名のみの安比風の冷たい北西風が肌を刺す季節である。母は、出立準備の整った私の姿を見上げていたが、
「セーターは新品のあったかい物をと思ったが、とうとう買えなかったな。途中寒いと困るから、下着を二枚着て行った方がいいよ」
何と、冬の下着メリヤスシャツ二枚重ねの着用を勧めたのである。気持は充分解かるが私は困惑した。
「向こうは東北と違って関東だよ!そんなに寒い筈はない!それに着膨れになって格好悪いよ!俺はやんた(嫌だ)」
出来れば厚着スタイルを避けたい思いの私であったが、母もあとには引かなかった。「向こうで風邪ひいたらどうするんだ」と、半ば強引に着せられてしまった。
勿論、現代の様な洒落たコートなどある筈もない。私のみか、当時上京組の誰一人として、着用する者は見当たらない、そんな時代であったのだ。
因みに、戦後日本の経済復興に偉大な貢献を果たして呉れた中学三年卒業者達に依る集団就職組が、思い思いの新品のコートに身を包み特別列車で上野駅に降り立ったのは、それから十三年後の昭和三十一年(一九五六)が走りであった。時々報道でも取り上げたりしたがこの集団就職列車は、昭和五十年三月まで続いている。
さて住み馴れた我が家をあとに、長い間世話になった家族との暫しの別れとなる日を迎え、やはり何となく去り難く、言い様のない淋しさと不安な思いに駆られたことは事実だが、現代ならばもっと違った形で現れたのかも知れない。
「向こうに着いてから必要な日用品や食べ物など欲しい物があったら、遠慮しないで何時でも手紙を呉れよ」
両親はあれこれと気を配って呉れたりしたが、私は只「うんうん」と答えるのみだったと思う。貧しい家計にも拘わらず、ずいぶんと無理して上京の仕度を整えて貰った実情は身に沁みて解っていたので、心の中では「もうこれ以上の迷惑はかけられないぞ」と自分自身に言い聞かせていたように思う。貧しさとはそんなものなのかも知れないのだ。
ところで当時十七歳に達していた姉は、同じ年の一月七日から、福岡町の片倉製紙工場に入職し、家を離れて会社の寮生活を送って居た。幼児から小学校時代、あんなに病弱だった姉が何と人並みに就職し仕事が出来るなんて、正に夢みたいな話だっただけに、両親にすれば至福に値することだっただけに違いない。
その姉が私が上京するとの知らせを受けて、どうしても見送りたいと外泊が許可され帰宅していた。家族一緒になって門出を祝い見送って呉れた事は本当に幸せであり、私の心を和ませて呉れた。
精神構造の面でも目を見張るほどの進歩(?)を遂げたと見られる現在の世相から見ればやや不自然な形に映るかと思うが、あの時代、入営や出征兵士の見送りは勿論のこと、就職、進学の為の上京等を含め、遠方に旅立つ場合は、家族の誰かが途中駅まで付き添って送る事が、一般の習わしとなっていた。
こうした事は、家族愛発路のための重要な手段でさえあったのだ。そんな気がしてならないのである。
私の初の状況に際し父も母も、せめて盛岡までは二人揃って送ってやりたいと考えていたようだが、当日になり結局父だけが、花輪線の終点である東北本線好摩駅まで送って呉れることになった。
「せめて好摩までは送って行きたかったが・・・赤坂田の停車場で我慢して貰う事にした、かんべんしてな」
母は寂しげな声で私にそう詫びた。そして蟇口の中から大事そうに取り出した金を、そっと私の手に握らせて呉れたのである。中味は五円銀貨一枚だった。
「少なくて可哀相だが、これ小遣銭だよ」
振り返ってみると、あの場合の五円という金額は、両親もかなり無理したお金だった筈だ。繰り返すようだが、あの頃我が家の経済状態は、私の高等科編でも述べている通り、最悪の時だった。小遣銭の金五円は言うに及ばず、見送りの為の僅かばかりの汽車賃さえままならぬのが実態だったと想う。
かくして私は、両親の慈愛の籠った様々な配慮に感謝しつつ、十五年近く住み馴れた我が家をあとに元気に出立したのである。
今の年齢計算にすると、当時父は五十歳、母は四十五歳であった。一般的には体力、気力共に充実した年齢だ。然し父はともかく母は病気がちだった為か、すでに初老の域に達したかのような容姿に見えた。そんな母を残して去ることについては、流石に後ろ髪を引かれる思いさえしたものだ。
赤坂田駅での母は、二男坊の晴れの門出に涙を見せまいと懸命に堪えている様子が見えたが、やがて出発合図の「ボーー」と鳴く汽笛の音と共に、列車が少しずつホームを離れる時の母の顔は、やはり涙にぬれてくしゃくしゃになっていた。
出生以来一緒に過ごしてきた肉親との暫しの別れとなる経験は、私としては初の事であり、異常な寂しさを感じた場面でもあった。
然し、幼い頃から父の厳しい教えの一つでもあった一つの言葉を想い出した。
「男は、人前ではめったなことで涙を見せるな!」
私は、歯を食いしばって耐え抜き、母には涙を見せることなく別れたのである。こうして親類縁者や幼友達など、大勢の人達の見送りを受け、長い間私を育んで呉れた故里の山や川をあとにしたあの日の事は、忘れ難い私の歴史の一齣となった。
忘れもしない、午前九時二分赤坂田駅を出発した列車は、機関車の吐き出す白煙をホームに残しながら、一路好摩駅へと向かったのであるが、父の付き添い見送りは好摩駅までであった為、父とはこの駅で別れることになった。(当時花輪線は好摩駅止まり)
好摩駅では、十一時二十四分発東北本線の上り列車に乗り換え、一人旅へと変わった。隣村の田山村からも三名の相模陸軍造兵廠入廠組がいたが、こちらの方は、家族が盛岡駅まで付き添っていた。
好摩駅で父と別れ一人ぽっちになった私は、家族と一緒の田山勢を横目に見ながら、羨ましさとちょっぴり淋しさもありで、聊か感傷的になりつつあったことは確かだ。
然し、逼迫した我が家の経済の事に思いを致す時、親を恨む気持ちなど、少しも湧いてこなかったのである。
県都である盛岡駅では半数を超える客が降りたので、本線の列車内はかなり空席が目立つようになっていた。私は四人掛けの座席に一人で陣取り、リラックスした姿で窓外を眺めていたら、筋向いの田山勢の席から突然真っ赤なりんごが一個飛んできた
。田山勢の中の一人、三浦三次郎君が、一人寂しそうにしている私の姿を見て、「りんごでもかじって、元気を出せや!」と言わんばかりに、持参したりんごから分けて呉れたものだった。
あの時のりんご一個は私にとって百個にも千個にも値する価値のあるものとなった。
あの時の私は、あの真っ赤なりんごでどれだけ慰められ、勇気づけられたか計り知れないものがあったのである。
友情に満ちたあのりんごの味は、生涯忘れることの出来ないものとなった。三浦君は他村校出身者であったから、この時点では氏名は不明であった。然しこれが相模陸軍造兵廠入廠後、最初の得難い親友となった三浦三次郎君との出会いのエピソードであった。
さて私達の乗った列車は、午後一時五十九分、岩手県南部随一の街として栄えていた一ノ関駅に到着、ここで田山勢三人と共に下車することとなった。
これは、一ノ関国民学校に於いて、岩手県下国民学校高等科卒業生の上京就職組に対しての県主催に依る合同壮行会が予定されていて、相模陸軍造兵廠組もこれに参加するためだったのである。
一ノ関駅頭には、真黒に雪焼けした多勢の少年たちが手に手にトランクを下げ降り立ったが、こんな光景を見るのは初めての事だった。
それまで盛岡以南に足を延ばすことのなかった私だったが、初めて一ノ関の街並みに接し、盛岡の街とは趣を異にした静けさのある町だとの印象を濃くしたものだ。
会場となった一ノ関国民学校の広い講堂には、東京・神奈川方面の各企業に産業戦士として就職する、千名を超えると思われる少年達が一堂に会し、予想を超える盛況ぶりを見せていた。
軍需工場や民間の各企業とも、県南部の出身者は見送りの父兄等も同席し、元気一杯の少年達で熱気むんむんの状態だった。
壮行会に於いて激励の挨拶に立った大人達は、どんな役職、どんな地位に在る人々であったのか。残念乍ら記憶から消えたが、壮行会は夜の帳が降りるまで続いた。
京浜地区の各企業や軍需工場からは、一ノ関の壮行会場まで出迎えた会社も多かった。相模陸軍造兵廠からの出迎え兼引率者は、やはり軍の関係者らしく現役の下士官であった。この人物、養成所訓育掛付の一教官である加藤陸軍曹長である事は後日判った。
さて引率人のお二人は、終始おどおどし通しだった私達に常時緊張感を解きほぐそうと気を配り、親切に案内することに努めていたように見受けられたものだ。
あの日、座間一期生の引き締まった顔、眼光の輝きに加え常に機敏なる動作等々には眼を見張るものがあった。最上級生を表す金線三本を巻いた制帽と、凛々しい制服姿に接し、先輩としての貫録をまざまざと見せつけられると共に、身の引き締まる思いにさせられたことは確かである。
因みに前記のお二人とも、大変残念なことであるが、すでに故人となられた為、最早あの日の事を親しく語り合う術はない。実に寂しい限りである。
合同壮行会終了後、陸軍造兵廠入廠組(約五十名)の新入り達は、一ノ関駅にほど近い某旅館に一旦引き揚げ夕食を取った。列車に依る出発は深夜十一時頃になるとの事で、それ迄ゆっくり休憩を取るよう指示されたのだが、県南部出身者はこの時点でまだ家族が付き添ったままだったので、待機している旅館で、夫々名残を惜しんでいる様子が見られ、ちょっぴり羨ましさを感じたものだ。
やがて午後十一時三十六分、一般客は乗せない臨時特別列車が十三・四歳の少年達約千名を満載し、一ノ関駅のホームを静かに離れ一路東京へと向かったのである。
夜更けというのに見送る人々が多く、駅のホームは家族で溢れていたように思う。だが私を含めた県北部出身者は見送る人もなく、此処でもなんとも言われぬ淋しい思いをさせられた。それでもホームに向かって元気に手を振って、一ノ関駅に別れを告げた。
二戸の田山村出身の三人組はと見れば、盛岡駅までは夫々家族が一緒だったので比較的賑やかさを装っていたが、一ノ関駅では流石に淋しさは隠し切れない面持ちでまるで元気がなかった。
臨時の特別列車は途中大半の駅は通過であり、小牛田駅や仙台駅でさえも停車はしなかった。深夜にも拘わらず、仙台駅の上りホームでは徐行で通過する特別列車に向かい、一般の人達が盛んに手を振って励まして呉れた。ひょっとしたらやがて戦場に赴く少年兵士達と見たのかもしれないが、時局は正に戦時下でもあり、私達も異常なる感激を味わいつつ、双手を強く振って応えたのである。
あの夜の光景を思い起こす時、とても半世紀も前の事とは思えぬほど、今もって鮮明に甦ってくることも多い。なお仙台駅の上り線ホームは、この日から三年後の海軍入隊の折、実姉と弟・実との別れの舞台となった場所であり、何故か共に深夜にあたったせいか、懐かしくも切ない想い出の横溢する駅ホームとなったのである(海軍編参照)。
当時は列車のスピードも遅かった。翌日午前十一時八分、上野駅に無事到着した。故郷岩手を出発したのは、余寒のまだ残る早春の季節そのものであったのに、東京に着いたら何と丁度桜花爛漫の時季にあたり、暖かい陽気に先ず度肝を抜かれる形となった。
故里の母に、どうしても着て行くようにと強要された新旧二枚のメリヤス肌着は、上野についた途端に早速影響が出て、暖かさを通り越し、今度は暑さで聊か閉口の態であった。
かと云って駅の衆人環視の中で着替えの為上半身裸になることも出来ず、已む無く着膨れ姿のまま、さらに神奈川の相模原まで汗だくに耐えながら行く破目となったのである。
上京早々母の思い過ごしをちょっぴり恨む事になったが、然し乍ら、風邪を引いたら大変との親心から発したことであり、そう思えば今ではむしろ母の愛の深さに思いを馳せることの出来る、貴重な体験であったと考えている。
この様にして私は、父母の愛に支えられ見守られながら、生れて初めての上京を果たしたのである。
東北の片田舎に育った身には、目に触れるもの耳にするもの全てが新鮮であり、大きな驚異でもあった。更に若干の都会の怖さをも実感し乍らオドオド・キョロキョロの連発で、相模原町の渕野辺駅に降り立った時は、本当に安堵したものである。
(平成四年一月十五日 記)
〜第四章 小学校高等科編〜
十、きのこ狩りと金時計
古里の我が生家から南西方向を眺めると、ほぼ真向かいに八幡平、安比岳、西森山、前森山等々の山並みが緩やかな裾を引き、四季折々に変化のある美しく優しい姿を見せて呉れたものだ。
たまに帰省し古里の山々に接すると、何となく安堵感を覚え、説明の付かない深い安らぎさえ感じてしまう。この事は故郷を出てから今日迄全く変わりはないのである。
少年の頃、私が特に好きだった山歩きの中の一つである秋のきのこ狩りは、里の部落から見て北西方向に位置する黒森山や、兄川上流の鍋越方面での山歩きが多かったように記憶している。
今は亡き父は五十歳前後。山歩きの達者な父と共に熊の出没する安比岳周辺等、里から遠く離れた深山に分け入り、秋の味覚では欠かす事の出来ない茸類を探し求めて歩き回った事などは、懐かしい想い出の一つだ。
あの頃は茸の種類も多かったし、量も多く採れたものだが、現在はどうであろうか。落葉のじゅうたんを踏み締めながら歩くあの軟らかな感触は、何とも云えない程の郷愁を誘うものがある。最近の私はそうした機会に恵まれる事が少なく、極めて残念であり悔しさを募らせるばかりだ。
私の山好きはあの頃培われたものと思われるが、未だに山を愛する心は失っていないと自負している。山間の村に生れ、山里に育った身であるから当然の事とも考えられる。
さて父に同行した茸狩りで大変懐かしく忘れ難い一つのエピソードがあるので、ここに紹介することにした。この話も、小学校高等科時代の秋だったと記憶している。
話が少々異なるが、その頃父が自慢にしている持物がいろいろあったが、その中でもこの時代では大変高価とされた品があった。
何れもドイツ製の逸品揃いで、金張りの腕時計。コンパクトながら瀟洒な置時計。それに金ペンと太さに特徴を持った重量感のある万年筆等々であった。
昭和初期、我が家の商いが最も好況だった頃、父が東京から特に取り寄せた文句なしの自慢の品々であった。
日本中が全ての面で豊かになった現在からみれば笑われそうな話ではあるが、大正時代から昭和初期、あれほどの高級品を所持している家庭は、山深い農村としては殆ど皆無に近い存在だったようだ。
見方に依っては、父の三種の神器とも言える物で、あの時代としては本当に貴重な品であった。舶来製品、それも当時名高いドイツ製ともなると大変巾を効かせていた時代であるから、父とすれば自慢の種であったことも頷けるのである。
さて、話が変わって木枯らしの吹き始めた晩秋のある日曜日の朝、珍しく早起きした父が、
「きのこ狩りに行くが、一緒に行くか」
と、山好きの私を誘って呉れたのである。勿論私は「してやったり!」と、二つ返事で同行することにした。
この時一瞬私は、極寒の中で猛吹雪と闘ったあの雪中の搬送事件(「猛吹雪との闘い」参照)を想い起したが、真冬の山とは異なりその時は秋真っ盛り。然も好天にも恵まれていたので、同行する事に一切疑念は持たなかったと想う。
母が心を込めて作って呉れた弁当を背負い出発した私達は、やがて何時もの通りぶなと雑木林が延々と続く深山へと入って行った。道なき道を歩き乍ら、暫くの間は苦労して探し当てた「なめこ」や「舞茸」の群生を見つけては、
「わあーい!」と歓声を挙げ飛び回っていたが、一向に昼食を取る様子のない父に、たまりかねた私は催促した。
「腹が減ったよう!昼めしにしようよ!」
父は意外と素直に頷き、足を止め腕に嵌めてある筈の時計に目を移した。
「どれどれ何時ころかな?」と、見ていたが異変はその時起きたのである。其処には、父が宝物の如く大事にしていた金張り時計が消え、腕に残っていたのは、茶色の皮バンドだけだったのである。
云うまでもなく、茸狩りはゴルフ場を歩くような気楽な方法では採取出来ない。何時の場合でも、それ相当の厳しい条件と経験が要求されるのである。誰でも行けそうな場所には茸は先ず無いと見るべきだ。たとえば少しばかり有ったとしても、直ぐ採られてしまうのがおちだ。
その日も例によって、人跡未踏と思われそうな藪の中を、二人で右往左往しながら歩き回っていた。その最中に時計本体を支えている細長い皮の部分(当時の時計バンドはこのタイプが圧倒的に多かった)が、木の枝等に障って切れ、バンドだけを残し本体の時計が落ちてしまったものと推測された。
この瞬間、父の顔色が見る見る中に変っていった。人に自慢できるほどの品であり、あれほど大切にしていた高価な時計を失ったのだから無理からぬ話ではあるが、何故そのような大事な品を危険な山歩きなどに持参したのか、あの父には大変珍しい事であり、今もって解せぬままである。
あとで分かった事だが、父は普段の山仕事には時計など持参する事は皆無に近かったという。
山での昼食時間や仕事終いの時刻などは、太陽の位置と、自身の腹具合が教えて呉れたものだし、私も父からそのように教えられたものだ。何故その日に限ってと、悔しさはいまだに消えることはない。
何よりも、持ち主である父の悔しさは予想を超えるものがあった筈である。父は時計の紛失に気付いたあと、私の方を振り返り苦笑していたが、やがて腕に残された皮バンドを剥ぎ取り、思いっ切り遠くの方に投げ捨てたのである。最も父らしい行動の一面だった。
さてそれから先はもう茸採りどころではなかった。昼食もそこそこに、朝から歩き回った藪の中を引き返し、必死になって時計探しが始まり、それが何時果てるともなく続いたのである。
然しながら、秋の山は条件が悪すぎた。大量の落葉が重なり合い地面を覆っている為、大きい落し物ならいざ知らず、小さな腕時計など、簡単に目に触れることなどあり得ないことだった。正に至難の技と云って良い状況下だったのである。父は私に向って言った。
「光る物があったら何でも拾ってみて呉れ」
私は思った。こんな山の中で時計なんて苦労して捜すより、亦新品を買えばいいじゃないか。そう安易に考えて、時計捜索にはあまり熱が入らなかったが、父の必死の形相を見るなりこれは容易ならざることが起こったと気付き始め、それから態度を一変し、父の調子に合せ夢中になって行動した事を覚えている。
但し、結果の方は残念ながら奇跡は遂に起こらなかった。何事も無ければ夕刻、日が西に没する迄には山から里に戻れるというのに、この日は夢中で藪や落葉の山と闘っていて、然も時刻を知らせる時計も消えてしまい、気が付いたら辺りに暮色が迫っていた。
その山から母の待つ我が家に辿り着くにはたっぷり一時間半は必要だ。父も私も半ば諦めの心境となり、止む無く帰路に着いた。
二人は最短距離の山道を選び、慣れない道を山から谷へ、谷から峠へとスピードを上げ懸命に歩いた。それでも一番近い黒沢部落に達しない中に、釣瓶落としの秋の日はとっぷりと暮れてしまったのである。
父も私も午前中に収穫した茸類を分担し背負っていたが、途中の山中で父が私に、重いだろうからと籠の中の茸を半分父の籠に移すように言った。
私は当時体力には自信があり、特に山歩きには足も鍛えてあったから疲れはなかった。むしろ内心しょげ返っている父の分まで背負いたいくらいだった。従って父の申し出は態よく断わった。
その後の二人は暫く無言だったように想うが、父は、暗闇の山道を黙々と歩き続ける私を気づかってか、時折いろんな話をして呉れたようにも記憶している。
何時もなら夕刻には必ず帰宅している筈なのに、一体どうした事だろうと、夕飯時を過ぎても姿を見せない二人の安否を気遣い、母ミヨが途中の瀬後部落辺りまで迎えに来ていた。
父の前を歩く私をみとめた母が、「しげこか!」と弾んだ声。
暗い道路の真ん中で、懐中電燈を下げて立っている優しい母の顔を見た瞬間は、言い知れぬ安堵感と、急に空腹感を覚えた私は、その時にはもう時計紛失の事は忘れかけていたような気がする。
自宅に帰り事の顛末を父から聞いた母は、山中で失った物が中々手に入らぬ高価な品だっただけに、非常に落胆した様子であった。
但し、なにはともあれ夫と子が元気な姿で無事山から戻ったことに対する安堵感の方が母にとってはより大事であり、そうした安心の色が母の顔にありありと見えていたことも事実である。
その夜、なお諦め切れずに黙りこくったままの父に、母は一計を案じ、それを父に示して懸命に慰めることに努めていた。
母の計り事とは、明くる日いま一度皆んなで山に入り、再度時計捜しをしたらどうかとの進言であった。母の言う皆んなでとは、私を含めた親子三人でという事である。夫婦二人で山に入るより、現場の状況に明るい私を連れて行った方が有利と見た訳である。
勿論、私はこの案には賛成出来なかった。何故ならば私には大事な学校があるのである。
「今日は日曜だからよかったんだ。明日は学校があるから、山さ行けねえよ!」
と断ったが、反射的に母は担任の先生に頼んでみると言うのだ。普段親に対しては従順だった私も、この時ばかりは困惑し母に反発を感じていた。
明くる朝母は、目の前の学校に行き何と校長先生に直談判し、無理やり頼んで私の休みを取って来た。あの時私は、何時もは優しい面ばかりが目立つ母の強引なやり方に、唯々驚くばかりであった。
斯くして、今度は母を加えた三人の眼で、昨日の山を徹底的に捜す破目となったのである。だが私はこの時点でなお、この様な事情で大切な学校を休む事には抵抗があった。いくら山が好きと言っても、時計捜しのみの目的で山に行きたいとは思わなかったのである。
だが、温厚な母のたまにしか見せない強い気迫に押された形で、止む無く参加することとなったのである。
さて我が母の本心は金時計一個の為というよりは、普段人に倍する気丈夫さを見せている亭主が大事にしている貴重品を失った揚句、稀にみる落胆振りを見せている姿を見るに忍びず、いま一度夫に勇気と希望を与えた上で、それでも駄目だったら今度は男らしく諦めてもらおうとの魂胆であったようだ。
明治男の豪放磊落さは定評があるところだったが、一方一見柔和そうに見えても、明治生れの女性もまた、優雅さの中にも意外な気丈さと強い気迫が同居している女が多かったようにも想う。我が母も、その中の一人だったのかも知れない。
亭主の嘆きぶりが尋常でない状態を見るに見かね、そこから脱する為には我が子の学校の授業を休ませてまで亭主に元気を取り戻そうとし、再捜索を目論んだものと察せられるのである。
さてさて、夫の失態に対しては何の策もなく、唯大声を発して責めるのみであり乍ら、子等の教育には異常な程の執着心を見せる現代の一般的な母親像を思う時、この様な場合、如何なる手法を用いるのであろうかと、甚だ興味深いところである。
母の切なる願いを込めた万が一の望みを託した時計捜索は、親子三人の協力態勢で臨んだ努力にも拘わらず、残念ながら父は再びあの金時計を手にする事はなかった、天は私達親子に恵みを与えては呉れなかった。
然し乍ら現場の状況を思えば、元々この作業は大海で真珠一個を拾う如きものであったので、この結末は当然と言えば当然の結果だったようにも思われた。
事ここに至りて、父も母の真情を十分汲み取ることが出来た筈であり、苦渋の表情は消えていた。当時の世相から見れば、一つの事件とも云える元木家の宝物捜しの一件は、なお諦め切れないものを残しながらも、この様にして一応収束の形となったのである。
この一件以来、父はもうあれほどの高価な腕時計を求めようともしなかったし、求めようにも家業の衰退がそれを許さなかった。
それは一にも二にも、やがては国家の運命さえも左右した、あの大戦突入という重大な時代背景があったからにほかならない。
この時計紛失事件もここで終ってはいないのである。このあと、私なりのささやかな後日談があるので、前段に引き続き紹介することにした。
父が金時計を失ったあの頃、私は現在の中二と同年令の少年だった。子供心にも父の無念さが心に染みた覚えがある。大人になったら何時かは屹度、父に喜んで貰えるような時計を買ってあげたいと心に誓っていたのである。
然し、その後にやって来た昭和動乱に翻弄されるところとなり、特に戦中戦後の大混乱は正に生か死かの戦いの連続であった。それは、人間らしい生活からはるかに逸脱したものだった。
そんな危機的状態からやっと脱出し、何とか立ち直りを見せ始めたのは、私の場合あまりにも遅かった。
どうにか生き延びられて、長い長い暗やみのトンネル人生から辛うじて抜け出し、人並に就職しやがてささやかな家庭を持つように至っても、完全復調とまではゆかず、残念乍ら更に生活の基盤が整わず、苦悶の日々が続いたのである。
人生とは挫折の連続とはよく言われる言葉だが、其処から如何に立ち直りを見せるかが人間としての価値の見せどころだ。という話を聞いた事があるが、それにしても、辛く悲しい歴史の中で生きて来たような思いが強く残っている。そんな訳で、父には甚だ申し訳のないこと乍ら。金時計には到底手の届く状況には至らなかったのである。
更に年月を経て、昭和三十四、五年頃だったろうか、横浜の中山鋼業鰍ノ在職当時、長い間の念願が叶って、やっと念願の金張り時計が手に入った。この時に至るも新品には手が届かず、当時流行の中古品であった。然も、父の宝物だったあの金張り腕時計とは比較にならない程の低廉な品だった。
然し、あの黒森山の時計紛失事件以来実に十七年あまり、心に秘めて来た少年期の夢が、曲がりなりにもやっと実現しそうな喜びで一杯だった事を未だに忘れてはいない。
鶴見大本山前の道路際に在った中古品店から念願の金時計を求め手中に収めることが出来た私は、父が上京したチャンスを捉え、自ら手渡すことになった。大分昔の事になったが、あの日の事はやはり鮮明な記憶として覚えている。
「小学校時代からずいぶんと長い間気にしていた事だが、こんなに遅くなって申し訳ないことだった。おまけに中古品で申し訳ないが、暫くの間、この時計で我慢して使ってほしいがどうだろう」
時計を父の前にそっと差し出した時、その時心は十七年前の少年に戻っていたような気がする。
父は多くは語らず、たったひとこと、
「そうか・・・・・」
と言って、嬉しそうな顔で受け取って呉れたが、やがて感極まったのか、その目には光るものがあり、珍しく泣きべそ笑いの顔に変っていた。
私が、あの気丈な父の涙を見た最初の瞬間でもあった、同時に「父も老いたり」と、しみじみと感じたものである。その時父は、確か六十八歳に達していたように想う。
その後も、働けど働けど我が家庭の経済は中々好転せず、残念なことに、とうとう新品の金時計を父に手渡す事が果たせず。父は待ち切れずに、母の待つあの世とやらに旅立ってしまったのである。
横浜市鶴見区に在った中山鋼業鞄月對寮は、私達が初めて世帯を持ち、その後長年に渡り苦節時代を送った懐かしの社宅である。
たった一間しかなかったが、あの六畳の部屋で、やっと手に入った中古の金時計を父に手渡したあの日から、更に十五年ほど経過した昭和四十八年一月二十四日、この世の務めを成し終えたのか、当時川崎市浜町に住む弟一家に世話になっていた父は、天寿を全うしこの地に於いて大往生を遂げるに至った。
その折、父の遺品の中に、あの金張り腕時計を発見した時はやはり驚きであった。中古の時計を更に十五年という長期に渡り、大事に使って呉れた父の気持ちを思えば、万感胸に迫るものがあった。
とうとう父には新品の時計を手渡すことができずに終わってしまった。父には本当に済まなく、自戒の思いを改めて強くするものだ。
こうして父は、永遠の眠りに就いてしまったが、秋深い黒森山中に於いて紛失した父の宝物、あのドイツ製の金張り時計も、おそらく誰の手にも触れることなく、落葉の陰でひっそりと永久に眠り続けてゆくことだろう。
(平成元年十月十日 記)
九、カーキ色の学生服(三)
当時列車の旅も大変で、相模原から故郷に至る迄、片道延べ十九時間にも及ぶ長い長い列車の旅だったが、疲れや辛さなど少しも負担に感じなかったように想う。
盛岡を過ぎ、東北本線好摩駅で花輪線に乗り換え、やがて列車が故郷に近い竜ヶ森の峠を過ぎる頃になると、身体の底から熱いものが込み上げて来るのを覚えたものだ。
やがて聞き慣れた駅員の声で、「アカサカダ(赤坂田)アカサカダア!」、夢にまで見た古里、赤坂田駅に到着だ。懐かしの駅頭に立ち、唯々感無量の面持ちであった。
その時何故か特に印象深く感じたことは、周囲の山々があまりも近く、眼前に接近した感じを受け、我が故郷はこんなにも山深い里であったのかと、改めて自覚させられたものだ。それは、故郷を離れた広大な相模平野での生活が、その様に感じさせたものに違いないのである。
但し、古里の山や川はよく見ると少しも変らず、優しい姿で吾を迎えてくれた事は感激であった。この事はその後の帰省の度に何時も感じた事である。
駅には、小学四年生の末弟・優と二年生になった妹の都が、多少照れくさそうな表情の中にも嬉しげににこやかな顔で出迎えてくれた。
ところがすぐ下の弟・実の姿が見当たらないのである。そんな筈はないと辺りを探してみたが、やはり見つからないので、
「実が見えないがどうしたんだ」と出迎えの弟妹に聞いたら、弟の優が何のためらいもなく即座に、
「恥ずかしがんべ!(恥ずかしいからだろう)」と言うのである。然し、その時の私は果たしてどのような理由でこの兄に会うのが恥かしいのか、訝しい思いだった。弟・実は飛んで来たい筈の出迎えを何故ためらったか、生家に帰り弟の姿を見る迄は、皆目見当が付かなかったのである。
両親が首を長くして待つ懐かしの我が家に帰ったら、母は屋外に出て優しい笑みを満面に漂わせて迎えて呉れた。父は家の北東側にある大根畑の手入れをしていたが、
「只今帰りました!」
と軍属生徒らしい私の挙手の敬礼に対し、一瞬戸惑いの表情を見せていたが、「来たか・・・」
とひと言、あの父特有の上目使いの表情を見せ乍ら私を迎えてくれた。
上京時に比べると、言葉使いや動作など格段の差を生じている私を見つめていた父が更に、
「立派になったなあ!・・・」
と素直な言葉を口にしたのである。我が父が、子供に対しこの様な接し方をしたのは、本当に珍しいことであった。私の方も五ヶ月近い期間、軍隊同様の厳しい教育の成果が、父が驚くほど自然に滲み出たものと思われる。
さて気になる弟の実の方だが、冬季こたつを設置する場所で、一見気恥ずかしい顔であり、それでいて無性に嬉しそうな顔にも取れる複雑な表情で私を待っていた。
ところが、如何なる訳か私の間に一定の距離を置き、自身は窓の陰に身を隠すような形で待っていたのである。
一瞬何だろうと訝しげに思った私であったが、弟の服装を見るなり流石の私も驚いた。その時の弟は現世ならば中学一年生に当たる。但し、その身なりは比較にならないほどのひどい姿であった。
弟の身に着けている衣服は、私の高等科時代より遙かに劣る粗末な物だった。
スラックスは何と父の気古した品で、一般には大人しか身に着けることのない、昔のコール天製の乗馬ズボンであった。上半身もまたひどい身形で、どう見ても子供の姿には見えないみすぼらしさであった。
余りにも貧しい姿を見せられ、弟がたまらなく可哀相になり、私は暫し言葉もない有様だったのである。
時は戦時下、世は物資不足が目立つ窮乏の時代を迎えてはいたが、生家の生活状態に今少し余裕があれば、まだまだ少年らしい服装が出来た頃だ。如何に我が家が切迫した状況の下にあったか、こうした事実からも充分察せられるのである。
良く見ると実だけではない。末弟の優も妹の都も大差のない貧しい身形であった。
これは数年後に起きた話であるが、弟・優の担任であったF教師が、優の継ぎ接ぎだらけの服装を指して、
「優よ!お前の着ている服は、まるで万国旗だな!」と、皆んなの前で揶揄した事があったようだ。例え冗談にしろ、非情な言葉を吐き、教え子の心を傷つけた行為は、教師として断じて許し難いものであると言わざるを得ない。この事実を耳にした時の私は、兄弟の一人として胸がふさがる思いがしたと同時に、その教師に対し恨みの感情さえ抱いたものだ。
妹の都も、そうした面では負けないような辛い思いを経験している。小学校中学校時代共に、その実例を挙げたら切りがないほどの苦労を重ねているのである。
妹の少女時代は、特に戦後に於いて可哀相な環境の下に置かれ、正に傷心の季節そのものであった筈だ。
特に私の心を締め付けて止まなかったことは、村に唯一校しかなかった中学校の卒業式を迎えた時の話である。村の中央に在る中学校を卒業する事になった妹の悩みは、今では想像もつかないものだったと言うのだ。
それは晴れの卒業式に出席するというのに、身に着けるべき洋服の満足なものが無かったと言うのである。折悪しき事に頼りになる母はその時五十一歳で死亡したあとだった。万策尽きた妹は、遂に無念の涙を飲み、栄えある卒業式を欠席する悲運を味わっているのだが、この様な事例はあの時代であってもあまり例がなかったようだ。
私の高等科卒業式には、本項パート(一)で述べたように、自ら働いた金で学生服を調達し事無きを得たが、妹に比べたらまだまだ恵まれていたと言って良い。妹の場合は、荒廃した戦後の混乱時代といった背景も重なり、相談する相手にも事欠き、止むを得ず諦めたのが真実だったようだ。
最近になり妹からその話を聞き、そんな悲哀もあったのかと、兄の一人として、申し訳なさと自戒の思いに苛まされた私であった。
但し、ここに述べた事実はほんの一部分に過ぎず、苦渋の実態は想像を越えるものがあった。涙なくしては語れない部分も、苦節時代には多かったように思うのである。
それは私達兄弟、共通の切ない想い出として、生涯決して忘れ去ることの出来ないものばかりだ。
そんな逆光の中で育ち乍ら、弟妹達は特に愚痴らしき事も口にせず、全ての苦難に耐えて呉れた。それのみか、弟・優はクラスの中の成績はトップの座を八年間護り続けた。
妹の都も女子の中では常にクラス一番という輝かしい成績を残しているのである。その辛抱強さや頑張りに対し、兄として心から賞賛の言葉を掛けてやりたいし、感謝の念さえ抱いている。
さて、話を元に戻すことにするが、私が初の暑中休暇を利用し、相模原から持ち帰った洋服を早速、弟・実に着せてやった。弟は、多少照れ笑いを浮かべ乍ら、傍らに居る母の顔と私の顔を交互に見詰めていたが、本当に嬉しそうな表情であった。
弟は殆ど無言であったが、やっと十三歳の少年らしい顔に戻り、継ぎ当ての全く無い学生服を着用した自分の姿を、いかにも誇らしげに眺めていたのが印象的であった。
そうした様子を傍で見ていた母が、
「みのる良かったなあ、まるで違う人みたいだ。良かった、良かった」
と言い乍ら、半ば笑い、半ば涙ぐみながら、何時迄も弟の姿を眺めていたように思う。
私は、家族にこんなにまで喜んでもらえるなんて予想もしなかっただけに、学生服を持ち帰ったことは本当に良かったと、その時胸が熱くなるのを覚えたものだ。
かくして、私の宝物の一つだった「カーキ色の学生服」は、私の手から離れ、二代目の弟に引き継がれた上、十二分にその役目を果たす事に相成ったという次第である。
遠い昔の想い出となってしまったが、あの日の弟の貧しい身形と、学生服に着替えたあとの姿と笑顔は、私の終生忘れることの出来ないものとなった。
思うに、戦中戦後を、あらゆる辛苦と闘いながら生きてきた我が兄弟の長く続いた団結の基は、苦渋の時代にこそがっちり組み、肩寄せ合いながら生き永らえて来た、その生き様の一つ一つの積み重ねが少なからず影響していることは紛れもない事実である。
本項を終えるに当たり、戦中そして戦後と、荒廃と絶望の中から雄々しく立ち上がり、曲折とある時は大きな挫折をも経ながら、今日のささやかな安定を勝ち取った、我が兄弟達の残された人生に、幸多きことを祈って止まないものがある。
駆け抜けた歳月、哀しみも苦しみも、過ぎ去ってみれば懐かしき夢ん中である。
(平成元年九月三十日 記)
八、カーキ色の学生服(二)
本・小学校高等科編は、日本が暗黒時代に入り、更に第二次世界大戦に突入した頃の話で構成されている。残念ながら時代背景が暗いので、此処に取り上げた回想の一つ一つが自然と暗いものになってしまった。
會ては近隣の人が羨むほどの商売繁盛で幸せ一杯の暮しが続いていた我が家が、突然戦争の影響をまともに受け、貧しさの中に蹴落とされた時代に生れた数々の逸話が主となってしまったのである。
但し、貧しさ故に生れたエピソードと言ってしまえばそれまでだが、本項に登場した回想の数々は、私の生涯の中である時は励ましとなり、又ある時はささやかな誇りとなり、これ迄の私を支えて来た面があることも事実である。
人の一生は、多種多様の変化に弄ばされ、その都度悲喜こもごもの体験を強いられる事が多い。また人間はある日突然に、百八十度の転換を迫られる事態に追い込まれる事だって無しとは言えない。その時狼狽し自分を見失ってしまうようでは、次に来るものは、破滅であり敗北だけである。
この事は、會って厳しい現実と対決し生きる事を余儀なくされた私が現世の豊かさの中に埋没し、何時の間にか今の日本に慣れてしまった我が身に対する戒めともなっている。
ところで前項で述べた「カーキ色の学生服」(一)は、すでに半世紀前の逸話となってしまった。
昭和十六年(一九四一)の夏八月、当時十四歳の少年が、夏休みの半分を返上し額に汗して初めて得た貴重な報酬。それによって、自分にとって最高の品を得る事が出来た喜びは大であった。この様な忘れ難い想い出を作って呉れた両親には、今ではむしろ感謝の念さえ抱いているくらいだ。
子供の頃から虚弱体質で何かと問題を抱えていた姉までが、家計の足しになればと、十六歳で奉公に出された。そんな時代に、わずかなりとも家計に貢献できた喜びと誇りは決してお金で買えるものではない。
人に誇り得るものがあまりなかった私にとって、あの夏休み返上のアルバイトは正に貴重な体験であり今もって無言の教訓となり、私の胸の中で生き続けている。
時価十二円のカーキ色学生服に纏わる逸話は、前項で述べたのみで終った訳では無い。この話には申し述べたい後日談があったので、項を改めパート2として、当時の世相を振り返ってみる為にも述べてみる事にした。
私が国民学校高等科を了えて、神奈川の相模陸軍造兵廠技能者養成所に入所した経緯は、前項で述べた通りだ。
養成所に入所して三ヶ月を経過した頃だ。その間予想を遙かに超える辛苦と、厳しい基礎教育を味わったが、それも無事了えた頃、次に来たものは将来の幹部養成の為の選抜試験に挑戦する事だった。大変な難関ではあったが、見事合格を果たす事が出来たのだ。
そしてその合格を土産に一年生待望の、暑中休暇が許可される運びとなった。昭和十七年八月十八日より九月一日に至るまで、丸二週間のゆとりある休暇であった。
古里を出てまだ三ヶ月半ではあったが、故郷に帰れる感激は大変なものだった。
時は戦時下ではあったが、両親や兄弟達の待つ故郷に帰れる事になり、今でもあの時の飛び立つような歓喜は、忘れることの出来ない想い出である。
身も震えるような喜び一杯のまま、楽しい帰省の日が迫った頃、ふと故郷に思いを馳せた。普段は養成所の厳しい教育訓練に耐えるのが精一杯で、ともすると故郷に在る肉親の事を忘れがちであった。
特に、生家で貧しい生活に耐えているであろう弟妹達のことが急に気になり出したのである。すぐ下の弟の実はもう高等科一年生の筈、果してどんな服装で通学しているのであろうかと、少なからず心配だった。
私が新町の高等科一年に入学した折には、家の経済が許さず新品の学生服を買って貰えず、止む無く父の古着で入学を済ませた(別項の「セコハン入学式」で詳述)。その折の自分自身の姿とオーバーラップする部分があったからだ。
然しながら、例え弟が困っていたと気付いたとしても、当時私は教育中の身。生徒手当のみでは、弟に洋服を買い与えるだけの余裕などある筈もなかったのである。
如何にすべきか迷ったが、暫くして極く自然に名案が頭をよぎった。それは、それ迄後生大事に仕舞い込んでいた私の宝物、あの「カーキ色の学生服」を弟に与えてやろうという案であった。
私は軍属養成所生徒として、制服を支給されている身であったので、上京の際着用して来た私物の洋服は当座必要なかったのである。
暑中休暇の許しが出て以来、帰省出来る嬉しさとは裏腹に、生家の暮し向きの事に思いを致すとき、やはり私の心は曇りがちであった。弟に自分の私服を与えてやろうと、そう心に決めたら矢も盾もたまらず、早速その旨父に便りを出したところ、折り返し次の様な返事が寄せられた。
「弟の実は大変喜び楽しみに待っているよ、お前が自分で働いて買った貴重な服だが、良かったらそうして貰いたい、母も喜んでいます」
そうして待望の帰省の日が刻一刻と迫りつつあった。古里への帰省は何時の時代でも嬉しさが込み上げて来るものだ。
私の一年生時の休暇は特別で、上京以来初めてでもあり、比類のない楽しみと嬉しさを満喫していた感があった。身も心も飛び立つ思いとは、あの場合の、あのような心境を指すものではなかろうか。
養成所生徒として入所して四か月あまり、公から支給される生徒手当は月に九円也、その中から更に国民貯金五円差し引かれ、決して楽な状況下にはなかった。むしろかなり厳しい生活であったことは確かだ。
節約に節約を重ね、帰省費用として貯めていた金を全部はたいて、旅費と土産物に充てた。ささやかな土産の品をトランクに詰めたり出したり、思いはすでに古里に飛んでいたような気がする。
さて帰省を夕方に控えたその日の事だ。養成所生徒に対する「陸軍幹部候補生」に資格認定の為の、陸軍省高官に依る検閲がその日午前中実施されたのである。
審査の対象となる学課の外に、養成所生徒が得意とした軍事教練や武術等の査閲もあり、生憎であったが何と篠突く雨の中にも拘わらず、造兵廠内の運動場や武道館等でそれが行われたのである。
運の悪さからなのか、私は教練や演習等の成績が比較的良かったのか、何と雨の中の運動場に回されたのである。当然のこと乍ら、査閲中制服がびしょびしょに濡れてしまい、はたと困ってしまった。
帰省出発は夕刻である。大事な制服がそんな有様では、出発時間迄に乾く見通しは全く立っていなかった。と云って、私服を着用しての帰省は軍属生徒として全く許されていなかったのである。
制服を速急に乾燥する方法はないものかとみんな思案投首の態であったが、大勢の仲間の中にはこういう時、機転に長けた者が大抵居るもので、誰かの提案で濡れた制服を生徒舎のボイラー室に持ち込み、急速乾燥して貰おうという事になったのである。
幸いなことに、ボイラーマンが親切な小父さんで、快く引き受けボイラー室に乾燥し易いように適当なロープまで張って呉れた。お蔭で、夕刻出発に十分間に合わせることが出来た。ボイラーマンの小父さんには心から感謝したものだ。
かくして我々一年生は、全員満面の笑みを浮かべながら足取りも軽く、古里目指して相模原の生徒舎を出発したのである。勿論、私の場合弟に譲ってやるカーキ色の学生服も、トランクの中に大切に納めてあった。 (九、カーキ色の学生服(三)につづく)
七、カーキ色の学生服(一)
私が小学校低学年の頃から密かに胸に描いていた望みは、「六年生を了えた暁には盛岡の中学校(旧制五年制)に進学するつもりだ。そしてその先更に師範学校(現大学)に進み、やがては小学校の先生に絶対成ってみせる」とする大きな野望に燃えていた。
その頃はまだ家の経済状況も極めて良好だったという背景もあって、四、五年生頃迄は自分の望みはある程度可能であり、叶えられるものと信じ込んでいた。
ところがその望みも大いなる夢も、日中戦争の落す陰が次第に濃くなると共に家の商いが傾き始め、日毎に拍車がかかる一方の生活の厳しさに戸惑う一方であった。
そんな訳で、肝心である六年生卒業の頃になって、残念ながら全ての望みは露と消えてしまったのである。半ば諦めかけてはいたが、やはり辛く淋しい想い出として忘れることは出来ない。
それから二年の歳月が過ぎ去り、太平洋戦争が開戦されて間もない昭和十七年春の事である。
別項で述べているが、私の小学校入学以来私の良きライバルであったM君は、国民学校高等科卒業と同時に、岩手県の師範学校第一部に進学することとなった。
羨ましいと思う心もさる事乍ら、念願だった教師になる道が完全に閉ざされた形の私の方は、あの頃悔しさのため夜も眠れぬ日々が続いた事を覚えている。
但し、当時の農村地帯では、上級の学校に進むことの出来る恵まれた生徒は、クラスで一名も居れば良い方だった。特に女子に於いては、その大半が小学校六年生で了え、家事の手伝いをさせられている様な有様だった。
男子の場合は、約九十%の人が高等科に進学出来たが、卒業するやいなや家業である農業の担い手となるか、又は就職の道を選ぶかどちらかであった。
私の場合も、進学の望みが絶たれた為に、当然就職という場面を迎える事となり、その為の準備に入ることになった。
高等科二年の時に担任であったO先生に、私なりの悩みを打ち明け相談した。O先生も我が家の内情は察しが付いていた様子で、君の進学はこの際諦めるしかないだろうと説得されたのである。O先生は更に、
「本当に勉強したい意志があるならば、就職したとて勉学そのものは続けられるものだよ、要はやる気の問題だ。その意志さえ強ければ、学問は絶対身に付く。頑張って呉れ!」と、諭して下さったのである。
かくして私の就職活動は本格的な行動に移る事になったが、現在の学制で言えば中学二年を了えた年代である。
我が家の長男である兄・馨は、二年ほど前から縁あって、神奈川県相模原町(現相模原市)に開設して間もない相模陸軍造兵廠に就職軍属として兵器製産に従事していた。この事実を極めて有利な条件とみた私は、この造兵廠内に中堅幹部養成の目的で設置されていた技能者養成所の生徒として入所すべく、兄の勧めもあって、職業指導所(現在の職安)を介し志願手続きを済ませたのである。
さてこの軍属養成所を選んだ理由の最たるものは、先ず軍の施設である事と、入所出来れば勉学をこの先三年間も続けられるというのが大きな魅力であった。
養成所を了えた暁には、造兵廠内に於いて幹部従業員への道が拓かれていた事も重要な条件として、私の目を向けさせた原因でもあったのである。
然し乍ら、私の上京志願に対しては、両親の意見が必ずしも一致していた訳ではなかった。
父は、長男・馨の許に送りこんだ場合何かと安心であり、また公務に従事できることは家として名誉であると考え、私の造兵廠行きを勧めていた。
母ミヨは、どちらかと言うと反対の様子で、出来ることなら地元に残り安定した職である国鉄要員として就職して欲しい、との願いが強かったのである。
然し父の強い意志には逆らえないものがあって、母は止むなく諦めたというのが実態だったと思う。
私は、今改めて思う。陸軍技能者養成所時代は、私が今まで歩んで来た人生の過程に於いて、言葉では言い尽くせぬ程の影響力を授けられた最も重要な過程であったと。従って、その全貌は項を改め、相模編として詳細に述べることにしたい。
話を本題に戻すが、母の反対にも拘わらず私の陸軍造兵廠への入廠が決まり、雪深い山間育ちの私が、故郷をあとに上京することとなった。
国民学校と改称されて、第一回の卒業生となってからは、両親も私も何かと気忙しい毎日を送るようになっていた。
さて、上京準備も一応整って、神奈川へと出発する晴れの門出の日。私の出で立ちは、兄が上京祝に送って呉れたトランクを下げ、履物は上京時だけという約束で兄から借りた、黒革の短靴であった。
当時若者の間で流行した編み上げ式の黒皮靴は、家の経済状態が許さず、とうとう手にする事は出来なかった。親とすれば買い与えたいことは山々であったろうが、やはり事情が許さなかったのであろう。私としても、悔しい想い出の一つとなったのである。
さて、上京の晴れ着となった服装であるが、上下お揃いのカーキ色の詰襟学生服であった。
当時は戦時下であったので、カーキ色は軍服と同色であり国防色とも呼ばれ、一応は流行色でもあった。一見何の変哲もない学生服であったが、私にとっては勿論一張羅の洋服として大変大事にしていた品で、やや大袈裟ではあるが、一種の宝物同様の価値があった物だった。
これから述べる一つのエピソードで解って貰えると思うのだが、想い出深い品であると共に、私の自慢の品でもあったのである。
昭和十六年夏、私が国民学校高等科二年生(現在の中二)の時だ。家の経済悪化防止の一助として、学校最後の夏休み期間中、父母と一緒に働きに出た時がある。
「カーキ色の学生服」は、私が働きに出て得た貴重な報酬の中から、母の勧めにより金十二円を拠出して買い求めた品であった。
働き先であった旧国鉄の屋外作業場では、勿論高等科二年生(十四歳)の身では、お金を得る目的では原則として働かせてもらえなかった時代である。ところが、我が母の切なる願いが現場監督の心を動かし、雇って貰える事になったのである。
「この子が来春三月、高等科を卒業する事になっているだとも(いるけれど)卒業式に着る服をどうしても買ってやりてえのす(やりたいです)。何とかして使って貰いたいと思ってお願えにきました」
母のこの言葉が、国鉄保線区の現場監督の気持ちを変えさせる結果となった。
この様にして、特別の計らいで実現した私のアルバイトであったが、当時としてはこの様な事例は皆無で、やはり異例の取り扱いだったようである。学校の仲間でも、農作業の手伝いは決して珍しい事ではなかったが、お金を得る為に働きに出る子は皆無だったように想う。
私とすれば最悪状態に入りつつある家の経済の事を思えば、働く事に対する抵抗感などは全く無かったと言って良い。むしろ両親と一緒の職場で働く事が出来る満足感の方が強かったように思う。
アルバイト先の私の作業内容は、大人の人夫達の手に依り枝打ちされた落葉樹の枝を拾い集め、指定の場所に集める単純作業が、与えられた主たる役目であった。
大人達の中に一人ぽつんと入って、話し相手にはあまり恵まれない淋しさは確かにあった。然し、念願の学生服を手に入れる日を夢に描きながら、雨天以外の日は弁当を背に両親と連れ立って、二粁ほど離れた小屋の畑部落近くの鉄道防雪林に、いそいそと出かけたものである。
やがて長かった夏休みも終わりを告げ、私の出稼ぎも無事終わることになった。私の待ちに待った日が訪れたのである。
「しげこ(私の愛称)、良く頑張ったなあ、そら、この服はお前が一生懸命稼いだ金で買ったんだよ!」
母が我が子の労をねぎらいながら私の前に差し出した洋服は、私が以前から希望していた「カーキ色の学生服」であった。
その瞬間の嬉しさは格別の感があった。自分が初めて額に汗して働いて得たお金で、一番欲しい物を買えたという満足感は最高の感激であった。その後の人生に於いても、この時に優る特別の悦びは無かったような気がしてならない。
昭和十七年三月、畑国民学校高等科卒業。その記念写真の中に、希望が叶い新調のカーキ色の学生服を身に纏い、左後方の列の中で、胸を張り如何にも満足気な表情で立っている私の姿が在る。
我が家が、厳しい生活を余儀なくされた当時に思いを致すとき、やはり胸を打って止まないものがある。
(平成元年九月二十日 記)
六、猛吹雪との闘い(二)
父も母も急変した天候の事が気になり危険を察知したのか、急ぎ帰り支度を始めていた。重い下駄の原木を三台の橇に満載し帰路に着いた頃は、先程までの真青な空は消え、辺りも何となく薄暗くなり、風速も増す一方で、何時の間にか吹雪と変わっていた。
この時私は、何とはなしに胸騒ぎするのを感じ取っていた。残念乍ら、私の一番恐れていた事が現実となり始めていたのだ。かと言って腕をこまねき、
「困った事になったぞ!どうしよう」などと呑気なことを言っている余地は、あの場合全く無かったと言って良い。とにかく、状勢が一転し悪化した事を考えると、一刻も早く現場を脱出する以外に方策は無かったのである。
然し乍ら、三人は重い荷を積んだ橇を引かねばならず、逃げ出すのも至難の技だった。風は愈々勢いと激しさを増し、早や猛吹雪となって私達親子を襲い始めていた。
風速が一メートル増す毎に気温も一度低くなるという事は、一般的な常識であるが、急激に下が始めている事は、体感としてよく判った。
更に私達を困らせたのは、帰路峠を越える迄は一方的上り坂であり、比較的緩やかな坂であっても、大変な体力を必要としたのである。但し、懸命に橇を引き悪路と闘っている間は、体が火照り寒さはそれほど感じなかったように想えた。
だがそれも峠からまだ距離のある道程だけで、最も難関とされた峠を目前にした頃は前進のスピードが急激に鈍り、厳しい寒さと一メートル先も見えない様な、猛烈な吹雪にまともに晒され始めたのである。
「早く!早く!早く峠を越えねば!」と、気ばかり焦るのだが、なにせ往路とは異なり復路は重い荷物を運んでいる為に思うように足が運ばず、積雪と吹雪との格闘は止む事はなく、前進は非常に厳しい状況となりつつあった。
朝、往路の時は帰路に備えある程度雪を踏み締めたつもりだった。ところがその足跡は吹雪のため大半消されてしまっていた。
従って、帰路は殆ど道無き道を只夢中になって橇を引くのみで、時間的にみれば大変なロスであった。
私達は、必死になって窮地から脱出することばかり考えていたが、何処に正規の道はあるのか、何処を歩いて来たのか、又この先何処を歩けば峠に出るのか、何れも判然とせず余計に焦りを感じるのみであった。
場所に依っては、かんじきを履いていても深い雪の谷間に落ち込み、腰まですっぽり嵌り込み脱出に時間を要する始末であった。
そんな不測の事態が重なり、苦闘の末やっとの思いで、目前に峠を望む事が出来た。この峠は、現在も天候さえ良ければ、里の部落からよく望むことが出来る場所で、それほど遠い距離ではない。
冬季は別として、夏季に望むと、あんな場所で遭難に近い騒ぎを演じたなんて到底考えられない、極く普通の穏やかな峠に変貌しているのである。
然し、冬季は全く趣を異にするのであるから北国の山は恐ろしいのだ。あの日この峠にやっとの思いで辿り着いた頃、寒風身を刺す猛吹雪はその極に達し、橇を引き引き先頭を行く父の姿が、吹き荒れる吹雪のため、見え隠れするほどだった。
父と私の間を歩む母に声を掛けても吹雪の音にかき消され、励ましの声も容易に届かない有様だった。私は、自身の事よりも、健康には何かと問題のある母のことが心配で心配で仕方がなかったのである。
都会に住む人達は、粉雪が斜めに舞う姿を指して吹雪と称する事があるが、私達北国育ちの者が云う本物の吹雪とは、降り積もった雪を強い季節風で吹き飛ばす有様を「吹雪」と言うのである。
さて最後の難所である峠越えをする為、第一級の吹雪との格闘が始まったのだが、荒れ狂う吹雪に進路を阻まれ一進一退の状態で橇は遅々として進まず、一歩でも前に進もうとする私達も、遂に立ち往生をしてしまう有様だった。
よく見ると三人共正に雪達磨そのものだった。この姿をみて私は、何故か雪の八甲田山中で遭難した、かの青森五連隊の事件が、ふと頭の中をよぎった。
因みに、この悲壮感極まりない話は、小学校で機会ある毎に幾度となく、先生達から聞かされて来た実話である。
時は明治三十五年、当時の陸軍が対露戦略を目指した演習により、青森市を出発した旧陸軍青森第五連隊が、途中大暴風雪の八甲田山中に於いて遭難、何と百九十九人の犠牲が出た有名な実話である。
然し、同時に別方面から雪中行軍した弘前第三十一連隊(岩手県出身者が大半を占めていたという)は、厳冬の八甲田山麓二百三十四キロの道程を無事踏破し、その沈着無比の行動と精鋭ぶりが今に語り継がれているのである。
猛吹雪下の魔の八甲田山麓とは条件が全く違っていたかも知れない。然し私達親子が身をもって体験した事実は、それに近い厳しさがあったと今でもそう思い続けている。
碌な防寒具とてない当時のこと、一歩間違えば死をも意味する無謀な行動は、あの場合何としても父に中止して欲しかった。前に述べたように、私は何よりも母の体調が心配でたまらなかったのである。私は思い余って父に大声で呼び掛けた。
「お父ちゃ!このままじゃ三人共凍死するかも知れねえよ!下駄の材料は天気の良い日を選んで、あとで取りに来ればいいんだ!荷物も橇もここで一旦捨てて、ここから早く逃げよう!」
声の限りに私は叫んだが、そんな最悪の状態に至っても、何と父は決して「うん」とは言わなかったのである。一徹さをもって鳴る父ではあったが、かほどまで頑固であったとは、私は唯々呆れ困惑するのみであった。若しかしたら、父には父の止むに止まれぬ理由が存在したのかも知れないが、この場合に限っては、どう考えても父の態度が理解できなかった。
然し乍ら、ひょっとしたら、親子三人最悪のケースも予想される厳しい状況下にありながら、殆ど無言のままで必死になって橇を引いている父の姿は、正に異常と見るべきで、何かに憑かれた男の後ろ姿を連想させた。
さて、依然として止まぬ烈しい風雪の中に在って、現状では到底峠越えは無理と判断した父は、ここで一計を案じ、以後作業の戦法を変え、どうしても運搬作業だけは続行したいと言い出した。
その方法とは、橇一台に三人で掛かり、荷物の量も少なめに変え、何回も峠を往復して全部残さずに運ぶ事だった。疑問は残ったが、早速この戦法を用い峠を強行突破する作戦に出たのである。
ところが、この作戦もスムーズには事が運ばず、父を大いに困惑させた。改めて申すまでもなく、自然の猛威は実に恐ろしい。これは経験した者でないと判らない事だ。父は戦法を変えてまで、凄まじい吹雪と対決しようとしたが、怒り狂った自然の猛威に比べたら人間の力なんて本当に微々たるもので、思ったようには運ばなかったのである。
稜線目指して斜めに強く吹き上げる風は、恐らく風速は二十メートルもしくは三十メートル近かった。気温もマイナス二十度以下だった事は確実と覚えた。熾烈な寒さの中で、身体の動きを止めると直ちに凍死に結び付きそうな状況であった。従って、疲労の方も困憊の度を見せてはいたが、身体を休ませる訳にはいかなかったのが、本当に応えた。
この年確か父は五十歳、母は四十五歳であったと記憶しているが、父はまだしも、前に述べた通り母は決して健康体とは言えなかった。それなのに、猛吹雪と極寒の中で未曽有の苦難に遭遇してしまったのである。
母が持病の高血圧が元で五十二歳という若さで世を去ったのは、ひょっとするとあの時の苦難が重要な原因となったのでは、と私は長い間今でもそう思い続けている。
そんな母が、あの苦しみの中に在り乍ら、息子である私の身が余程心配だった様子で、始終私の方にばかり目を注いでいた。私の方も母の事が頭から離れず、可能な限り母の傍から離れぬよう努めていた様に思う。
私はまだ若干十四歳の少年期であったが、ここで母を遭難なんかさせてたまるかと、母を庇い渾身の力を振り絞り橇を引いた事が、昨日の如く鮮明に想い出されるのである。
父も母も疾うにこの世を去り、亡き数の中に入ってしまったが、あの世とやらで、あの日の苦闘を想い出す事はあるだとうか。
延々と続いた猛吹雪との激闘がやっと終わって、幸いな事に難関の峠を乗り越えることが出来たのは、すでに日も西に傾きかける時間となっていた。
正に悪戦苦闘、実に四時間を越えようとする自然との闘いであった。無上の喜びと達成感、そして無類の安堵感を全身で感じ乍ら、山から下り、里に近い安比川にかかる馬橋を渡り赤坂田部落に達した頃は、何と再び天候が回復し真青な空が見え隠れするようになっていた。
死を呼ぶような、あの猛吹雪の咆哮がまるで嘘の様に、静かな山里のたたずまいがそこに在ったのである。
私は全身に漲っていた力が、音を立てて崩れ抜けていく様な気がした。そしてその場にへたへたと座り込みたい程の激しい疲れを感じたものだ。恐らく父も母も同じ思いでいたのではないだろうか。
私達の行動そのものは、あの最悪の状況下では当然遭難が予想されるケースであったのに、とにもかくにも恐怖の雪地獄からの脱出に成功し、親子三人何とか無事で下山出来た事は、神仏の加護に依るものであったと、現在に至るもそうした思いが強いのである。
私は今改めて思う。大自然の脅威は計り知れない程のものがある。あの雪山搬送の暴挙は、父の頑固一徹さが如実に出たもので、同行した母も私も、家族愛を越えた大きな苦難を強いられた一つの事件であった。
お蔭で自然の恐ろしさを文字通り身をもって体験することになった私だが、そこから得た教訓は、人間は時と場合によっては、何事に於いても中止を宣言する決断力に加えて、勇気ある撤退をも考える余裕を持ちたいものだと考える。
何よりも先走った自己本位から無謀な行動に走ることだけは、厳に慎まなければならない事だと悟った次第である。
たまに帰省した折など、北西の山の頂上に見えてくる彼の峠にどうしても目が移ってしまいがちな私だが、決して忘れてはならない大きな教えを呉れた想い出の地であることは生涯変わることはない。
あの日、地吹雪が荒れ狂う中で、体半分雪の中に埋もれ乍らも必死になって橇を引いた山の頂も、夏の季節に里の部落から望んだりすると、みどり一色に覆われた優しい姿で私を迎えてくれるのである。
(平成五年二月二十六日 記)
五、猛吹雪との闘い(一)
私が確か小学校高等科一年の冬、十四歳の時だった。厳冬のある日、両親と連れ立った吹雪の山中で、極度の疲労と寒気の為、危うく遭難しかけたことがあった。
この話は、父の無類の頑固さと、無謀ぶりが如実に出た実話である為、父にとっては決して名誉な話ではなかった。
母も父の事を気づかっていたのか、日常話題とする事は極力避けていたように想う。私もまた、父の生存中は本事件を語る事については、父の名誉を考えればある程度抵抗があった事は確かである。
然し、これも消すことの出来ない歴史の一ページであり、それに最早半世紀ほども経過した時効ものであると判断し、我が一族の為の一つの戒めとして述べることにしたものだ。
北国特有の地吹雪が今少し長引いたり、私達親子の体力が伴わなかった場合、或は三人共に里には戻れず、峠の吹雪に埋もれて果てたかも知れないくらい重大な出来事だった。斯様に思えば、今でさえそら恐ろしい気持ちになってしまう程だ。
学校が冬休み最中の時だったから、確か厳冬の一月中の事だったように想う。珍しく晴れ上がってはいたが、気温の低い寒い朝であった。囲炉裏の傍で父が私に話し掛けてきた。
「下駄木を取りに山さ行って来たいと思う。三人で行けば全部運べると思うから、一緒に手伝ってくれねえか」
と、炬燵に入りのんびりしている母と私に相談を持ち掛けたのである。
「山って何処の山さ行くの?」私は訝しい思いで父に問いただした。
ところが、父の返事を聞いてびっくり仰天した。驚きと言うより、半ば呆れ返って次の言葉が直ぐには出て来ない有様だった。父の言う山とは、私の想像していた近くの里山とは根本的に違う遠方の山だったのである。
雪の降り積もった同じ冬山でも、それ迄私が両親と一緒に出掛ける山と云えば、杉の枝等を運ぶため近くの里山に橇を引き出かける程度で、二つも三つも山越えして行くことなどは殆ど皆無に等しかった。
父の言っている目的地の山は、夏季でさえ徒歩二、三時間を要するかなり遠方の山だ。それでも父はどうしても行きたい風である。
秋のきのこ狩り等の類なら話が分かるが、場所によっては二メートルから三メートルにも及ぶとみられる積雪が先を阻む厳冬の山中に分け入り、道なき道を、重い下駄造りの原木を運ぼうとしているのだ。
然も、三人共に身体の自由を束縛する重荷の橇を引き乍ら行動しなければならないのである。誰が考えても、当然難行苦行が予想されるケースである事は間違いないことだったと思う。
よく思考すればするほど、到底成功が覚束ない無鉄砲な行動としか思えないので、父の考えに賛意を表す気にはどうしてもなれなかったのである。
日常父のやる事には、一歳逆らうことのなかった私だが、この時ばかりはどうみても無謀さが目立つ為、勇を鼓して父に反対を唱えた。
「そんな遠くの山に行くなんて、冬は危ねえよ!空身で行き来することだって大変なのに、橇で物を運ぶだなんて、とても無理な話だと思うよ」
私は、危険が予想される奥山の雪中運搬作業は、どうしても阻止したかったのである。
ところが、一旦こうと言い出したら他の忠告などあまり受け入れず、一歩も後に引かぬことの多い父のことだ。未だ少年の二男坊の言う事などに耳を貸す筈はないのだ。父の一番悪い面がまたぞろ現れ出していた。
「なあに、今日は天気がいいから大丈夫だ。この上天気逃がしたら、今度何時運べるか分らねえ。雪はまだ大したこたあねえと思うんだ。二月に入れば雪はもっともっと深くなり尚更運ぶのが無理になる。やっぱし今日しかねえな!行って来るべえ!」
私は、傍らで黙って聞いている母の顔を覗き込んだ。母も疑心暗鬼の面持ちがありありと出ていた。やはり心配で心配で仕方がなかった筈である。
「どうしても行かねばならねえの?」
再び私は、父の反意を期待しつつ問いただしてみたが、やはり駄目だった。
「うん、どうしても行って来なくちゃならねえんだよ。そうしないと、下駄造りの材料が無くなり仕事が絶えてしまうんだよ」
これ以上父に中止を求めても無駄だと判った私は、頭を垂れて悩んでいる母に進言したのである。
「行くなら早い方がいいよ。天気が変わりやすい夕方までに、必ず家さ戻るように急いで行って来ようよ」
私の最終的とも云える決断に、両親も頷き急いで支度を整えて家を出る事にした。この様にして私は、不本意ながらかなりの困難が予想される厳寒の山作業に、父の強引さに押された形でお伴をする事になったのだが、精神的には全く落ち着きを失っていた。
母が急いで作ったおむすびは私の小出し袋に入れて背負った。ところで冬の運搬には必需品である橇とかんじきは、我が家には両親の分しか無かったので、母の生家に私の分を借りに行った。
当主の従兄は夏冬問わず山作業ではベテランで、冬の農閑期等には始終山中の仮小屋に籠もり、炭焼き作業に従事している言わば冬山作業のプロであった。私達三人の深山行きが余程心配だったらしく、従弟の私に念を押すように注意した。
「途中の峠を行き帰りする時は心配だなあ、いいか絶対無理すんなよ、風が強くなったら荷物を置いて山から逃げる事を考えろよ!」
従兄は山作業に出掛けようとしている私達三人を、何とかして引き止めたいとする願いで一杯だったように思う。
「無理したら、とんでもない事になるぞ!」の言葉を、繰り返し私に述べて呉れたのである。冬山作業に慣れた人が心配するくらいだから、誰が見ても無謀と見えたことは確かである。
あの日の朝は確かに快晴で、夕刻どころか昼過ぎから天候が急変し、猛吹雪に変わることなど、予想だにしなかった事だ。
勿論テレビ等も無い時代であり、出発前のラジオの天気予報等も確認せず出発した。但し私達親子三人は、ある程度の寒さに耐えられるよう身支度を整えて、元気に家を出たのである。
自宅には弟の実(五年生)を頭に、四男の優(二年生)、妹・都(六歳)の三人が留守番で残った。当時兄と姉は働きに出ており家には居なかった。
万が一遭難等の事故が発生した場合の事を考えると、今でさえ空恐ろしい感情を抱くことさえある。
特例は除き、あの頃は現在とは違って積雪量はかなり多かった。文字通り道なき道をかんじきを履き、帰路スムーズに通れるよう雪をある程度固めながらの歩行だったので、予想を越える体力と時間を要し難儀を極めた。
目的地には昼食の時間をとうに過ぎた頃やっと到着した。
早速雪の下に埋もれていた下駄造りの材料をスコップで掘り起こし、三台の橇に分配し積み終えたところで、やっと昼食を取ることにした。
寒いので焚火をすることになり、雪を掘り下げ其処に枯れ葉や枯れ木を沢山積み、更にその上に生木の枝を積み重ね、早速火を放った。パチパチと勢いよく燃え盛る焚火を囲んで、親子三人肩を寄せ合って昼食をとった。
空を見上げると、青い空がまだ一杯広がっていて、この分じゃ家に帰り着く迄は大丈夫みたいとたかをくくっていた。父も、如何にも満足げな面持ちでのんびりと煙草をくゆらせていた。嵐の前の静けさとは、あの様な状態を指すのではないだろうか。
ところが、昼食を終えて半時ほど経過した時分から、何と山の稜線の西空が一転俄かにかき曇り始め、どす黒い雲が、東へ東へと急激に広がり始めたのである。
それに併せたかの様に、北西の風が強くなり始めていた。今で言う北国特有の寒冷前線の通過が迫りつつあったのは確かなことだった。
((二)につづく)
四、優しい父の背中
私の育った幼少年時代は、満州事変(昭和六年)や日支事変(昭和十二年)等の戦時が多かった。
然し子供心の隅々まで戦時色が入り込む程でもなく、太平洋戦争が始まった昭和十六年以前は、全体的に見て貧しさの中にも比較的明るさが見えていた。
子供の頃、全ての辛苦を忘れ山野を駆け巡って遊びに興じた想い出もまた尽きる事はない。
自然に恵まれた我が故郷は、遊びの場所に事欠くことは先ずなかったと言って良い。春夏秋冬、周囲の山々は四季折々に装いをこらし、私達少年少女を呼び続けてくれたものだ。春や夏の山々もそれなりに風情があったが、秋の山は特別バラエティーに富んでいたように想う。
余談だが小学生時代の私は絵を描くことが好きで、学校以外でもよく描いていた。特に風景画の自然描写が好きだった。その中でも、秋の紅葉期が何と言っても一番だった。
葉を落とした秋から冬にかけての殺伐とした森を歩く時はたまらない淋しさを感じ、ある時は、春を待つ希望みたいなものを、克明に描きたい衝動に駆られる事もあった。
全山錦を散りばめたような紅葉の下で、子供達はあけび採り、山ぶどう狩り、栗拾い等。学校が休みの日などは、一日中疲れも見せず山々を飛び回っていたものだ。
又、桑の実の熟す頃になると、唇が紫色に染まる程食べてお互いの顔を見比べ笑い転げたりした事も懐かしい想い出となっている。自然の中にどっぷり漬かって遊んだ少年時代の記憶は、今も色褪せることがないのである。
私の少年期は、山間育ちのせいか山歩きが特に好きで、父と一緒に出掛ける事も多かった。山の奥に入って行くと、だんだん心が和んで来る事に気が付くことがある。人間は、自然の中では一番素直に見えるし、優しくもなれるもののようだ。やはり広大な自然がそのように導いて呉れるものだと思う。
あの頑固印を一人で背負っていたような我が父でさえ、山では何故か一人の優しい父に戻っている事が多いように感じたものだ。だから私は、山懐に抱かれている時の父の姿が一番好きだった。
父の山仕事手伝いで楽しみと言えば、何といっても弁当を広げる昼食の時間であった。アルミ製の弁当箱の蓋に冷たい沢水を汲んで、涼しい木陰に入り食べたものだが、贅沢なおかず等無くとも、結構美味に感じたものである。
父は自分の弁当の中のおかずを、常に食欲旺盛を告げる私の弁当箱の中に例え少量でも必ずと言ってよい程そっと移して呉れたものだ。勿論母と一緒だった時も、同じような事が起きた。従って母の弁当箱の副食物はほんの少しだけしか残らなかった事もある。このような現象は、現世の弁当箱の如くおかず類が山ほど詰め込まれている状態とは、全く異なった状態の中で起きた。
通常の場合、大根やきゅうりの味噌漬、それに沢庵大根に梅干し、野菜の煮物等が普通の副食物で、極く極く驕った場合でさえ、焼き魚が一切れ入っているかどうかといった時代である。
この様な現象は、特に我が家に限った事ではなかった。昔の親子の情愛は実にこまやかで、学ぶ点が非常に多いように想う。
山に行くと、流れの速い谷川と対峙し困惑する場合がよくあるものだ。小学校も高等科時代ともなると、体力も十分で、少々の急流でも自分の力で渡り切れる自信は当然備わっていたように想う。ところがこんな時父は、「大丈夫だよ自分で渡れるから!」と、断る私を無理やりおんぶして、危なげな足取りで懸命に急流を渡って呉れたものだ。
父は生来身長に恵まれず、一見華奢な体躯であったから、男としてはむしろ小身の部類に入る方であった。然し乍ら我が子の安全を考え、又足を水に濡らさせまいとする優しい配慮から出た行為だったのである。
頑固一徹な父も、側面から見れば極く普通の親であるという意外な一面のあったことを表す、これは一つのサンプルでもある。
あの時の父の汗臭い背中の温もり、父の背におんぶし安心し切った少年時代の私の姿。遠く過ぎ去りし少年の日の想い出は、懐かしさと共に何時迄も消える事はないが、あの日は絶対に戻っては来ない。そう思うと、たまらない程の寂しさを感じて止まない。
(平成元年一月十日 記)
三、涙の弁当箱
時は昭和十五年九月、荒屋尋常高等小学校高等科一年に在学した秋の事だ。初秋の訪れと共に、澄み切った秋空の下で行われる運動会の好季節を迎えていた。
小学校時代の運動会は何処の村々に於いてもほぼ同様の形態であったが、村民挙げての一種のお祭り的色彩の濃い行事であった。大人も子供も親子参加の十分楽しめる内容で実施されたものだ。従って学校行事というよりも、学区内村民参加の年中行事の一つであったのである。
運動会が近づくと、大抵の親達は子等に対し、ランニングパンツとシャツ、それに当時流行した運動会専用とも言える布製足袋を、必ずと言ってよいほど新調して呉れたものだった。
小学校尋常科時代の私も、両親が用意して呉れたそれ等の品々を運動会の前夜などは嬉しさのあまり枕元に並べて床に就いた覚えがあるくらいだ。あの真新しい木綿の香りが、今でも何かの折に小学校時代の昔を偲ぶ懐かしさと共に、蘇って来る事も多いのである。
さて、運動会当日の昼食は、特にその日だけに限ってはいたが、中にはかなり無理したと思われる手作り料理の数々を重箱等に詰め込み持参し、校庭や講堂内で広げ、それぞれ家族団欒の許で楽しげに会食する光景が見られたものである。当時の農村ではこの様な風習が脈々として生きていた。
私の育った家は、別編で述べたように商家であり然も小学校の直ぐ前に在ったので、運動会当日は商品のお菓子類と一緒に、母の手作りであった大福餅を自宅前の出店に並べ売ったものだ。特製の大福餅は、黒砂糖をたっぷり含んだあんこが甘さを引き立てていたので、毎回半日で売り切れとなる程好評を得ていた。
そんな事情もあり両親は商売が忙しく、校庭で子供達が懸命に走りまわる姿を観る事はあまり無かったという。
私が自宅前の小学校を六年生で卒え、学校も遠方に変わってしまった高等科一年時、迎えた運動会はそれ迄とは全く異なり、戦争の影響もあって様相が一変していた。家業の商いも次第に下火となり、日毎に貧しさの中に埋没しつつあった時だけに、残念乍らかつて楽しかった想い出の数々は、暗く淋しいものに変わりつつあったのである。
高等科一年生とは、申すまでもなく現在の中学一年生に当たる。前に述べたように、運動会とは皆んなが理屈抜きに楽しめる行事であったのに、その年の運動会は、私の心は楽しさが募るどころか、期日が迫ってくると共にだんだん暗転の方向へと辿る一方だったのである。
その理由とは、荒屋小の運動会が近づいている事を未だ両親に伝えていなかったことにある。勿論思うところがあり、意識して伝えていなかった。
そうこうしている中に、秋期運動会が翌日という事態となってしまった。それでも私は、母にその事を告げようとはしなかった。何故ならば、若し運動会の件が両親に知れた場合、恐らく母は乏しい家計の中から無理をしてでも普段と少し違った運動会に相応しい弁当を持たせて呉れる筈だったからだ。更に又、私のランニング用のシャツやパンツは、例えば恥を忍んで借金の工面をしてでも、皆と同じ様に必ずや新調して呉れただろう。
然し私は、我が家始まって以来という貧しさと懸命に闘っている両親に、全てを明かし物心両面の負担をかけたくない気持ちで一杯だったのである。
とうとう親には何一つ告げる事が出来ない儘、運動会当日がやって来た。私は、そんな状況の中でも欠席する気にはなれず、親には尚もひた隠しにして運動会に出る事にした。親に嘘をつき休む事など考えられぬ事であり、更に又、私は陸上部員であったから休む訳にはいかないという一面もあったのだ。
幸か不幸か、早朝から夕刻に至る迄外に出て働く両親には、その日に至るも、遠方に在る高等小学校の運動会の事は一切洩れていない様子だった。
私はその日の朝になり、「今日一日だけでいい、運動会の事が父母に情報洩れのないように」と祈り乍ら家族に気付かれぬよう普段と少しも変わらぬ態度で終始し、自転車を飛ばし登校したのである。
勿論、母が私に持たせた弁当の中味は、何時もと全く変らぬ平日用であった。ここで少々おセンチになったり、幾許かの悲壮感に襲われたりするのが普通の人間が味わう心情の様にも思うが、不思議な事にそんな状況の中に在っても特別そのような感情もなく、むしろ運動会に出られそうだと、一途な喜びの方が強かったように想う。
学校に着いて直ぐ、思い切って体育担任であったS先生の許に飛んで行った。
「先生お願いです!学校に備えてある競技選手用の運動衣を今日一日貸して貰いたいけど、どうだべ!」と頭を下げ頼んだのである。
因みにS先生は、陸上選手としては無名に近かった私を僅か半年間で荒沢、田山両村対抗競技大会で陸上中距離走競技ではトップの座を占めるところ迄、育てて下さった恩義ある教師であった。
S先生は、突然突飛な願いを言い出した私を怪訝な顔で見ていたが、やがて全てを察したとみえ優しい顔で返事したのである。
「ああいいよ。終ったら洗濯をして元の場所に返して置けよ!」と、快く承諾された。あの瞬間、私は心の底から安堵し先生に感謝した。当然の事ながら、S先生の好意に対し懸命に手を合わせていたように思う。
競技選手専用の運動衣は誰が見てもそれと判る標識が入っていたので、確かに気にはなった。然し私は、努めて周りの目は気にしない事にしていた。幸いなことに、大半の仲間は判っていながら無視して呉れた事に対して心から感謝した事は言うまでもない。
斯くして私は、借り物の運動衣を身にまとい、陸上選手としての名誉に恥じないよう縦横無尽の活躍をする事が出来た。その事はS先生を喜ばせることにもなったのである。
さて、午前の競技や種目が了え、皆んなが待望の昼食時間となった。殆どの生徒は手弁当持参であった。その日は特に運動会であるため、平常とは違い、特製の御馳走が一杯詰まった弁当を広げる楽しい時間がやって来たのである。
然し、残念ながら私にとっては、皆んなと一緒に寛ぐことには聊か抵抗のある、憂鬱な時間の到来であった。
生徒達は運動場の木陰を選んだり、講堂に入ったりして三々五々円陣を組んで談笑しながら、親が特別に作って呉れた弁当を広げ食べ始めた。
それらの様子を横目で眺めていた私は、やはり一人で困惑状態となっていた。私の弁当の中味は、皆んなとは違う筈だと自分に言い聞かせていたように思う。
流石に普段と全く変わらぬ内容の弁当を仲間達の前で広げる事は、何となく恥ずかしくためらいがあった。あの場合の私には、それでも皆んなの目を無視して堂々と弁当を広げる勇気は、情けない話だがどうしても出てこなかったのである。
困った私は、咄嗟に一計を案じ、仲間達には教室に箸を忘れたと云う口実を作り、急遽誰も居ないであろう二階の教室に急いだ。無人の教室に入るや、直ちに自分の席で一人ぽっちで弁当を広げた。
私の弁当の中味だが、やはり稗の混入した御飯の上に、何時ものように沢庵と味噌漬大根が夫々三切ればかり並んだ、運動会にはどう見ても相応しくない内容であった。
但し普段の日であれば、当時の慣習としては決して周囲の仲間達にそれほど劣る内容ではなかった。然し年一度の祭りでもある運動会の手弁当としては、どう見ても気の引ける内容だった事は否めなかった。
「教室内に誰も入って来るなよ!」と、心の中で叫び続けながら、一気に弁当を食べ終えた私はほっと安堵し、空になった弁当箱を眺めていたら、急に母の顔が瞼の底にちらつき始め、借り物のランニングシャツ等の事もあり、この事実を母が知ったらどんなに悲しむだろうと思ったら、不覚にも熱いものが込み上げて来て、思わずぽとりと一粒の涙を床に落としてしまったのである。
その後気を取り直し、級友達の居る場所に戻った私は、間もなく弁当の事は忘れ、皆んなと談笑していた。
さて、その日の夕刻の事だ。何処で耳にしたのか全ての事が両親の知るところとなり、親に叱られる事の比較的少なかった私だが、その日ばかりは様子が違っていた。
「どうしてそんな大事な事を隠してまで辛い思いをするんだ。それで親が喜ぶとでも思っているのか!むしろ世間の人に親の方が笑われるだけだぞ!」
と、父は血相変えて怒った。更にまた母も、
「運動会と判っていれば、運動衣も足袋も新品を買ってやったのに!弁当だって、それなりのおかずを作って持たせた筈だ!何で黙っていたんだ!」
と、目に涙を一杯溜めて私を叱ったのである。想えば、或はあれは私の独りよがりの行動であったかも知れないと今でも思う。
あの様な先見に類する行動は、私の生来からの行動パターンだったふうにも思う。その功罪はともかくとして、今日に至るも未だに是正されずに歩み続けて来た感が深い。
思えば、周囲の人々からは残念乍らそれほど評価して貰えず、それどころか逆に精神的な負担を強いたりするのである。この事は私の重大な反省点でもあり、長い人生に於いて幾度か親兄弟に迷惑を及ぼし、心の苦しみを与えてしまった点は、心すべきことであり、常に反省の材料としている私である。
「貧しさとは、常に耐え難き辛さを伴うものなり」とは誰かが言った言葉であるが、あの場合も真実思い知らされた出来事であった。
楽しいはずの運動会のあの日、人目を避け誰も居ない教室の一隅に一人ぽつねんと座し、
「これでいいんだよ、これで」
と自分に言い聞かせ乍ら、貧しい昼食を取る少年時代の吾が姿は、生涯忘れることの出来ない苦渋に満ちた想い出の一つである。
と共に、その後の苦難の我が人生に於いて、幾多至難の場を乗り越えさせて呉れた、心の糧ともなったのである。
(平成元年四月五日 記)
二、ちいちゃなほっぺ
この話は、我が家の最も貧しい時代に迎えた、私の想い出の中でも欠かす事の出来ない一つの悲しい物語である。
昭和十五年、私が自宅前の小学校を了えて村で只一校の荒屋高等小学校に入学した年の夏であった。前年の暮れに生まれた(届出は十五年一月一日生れ)末弟の誉(ほまれ)が梅雨時の気候不順の折引いた風邪が元で重い症状となり、中々好転せず両親を困らせていた。
五男に生まれた誉は、不幸な事に生まれた時期が非常に悪かった。我が家の経済状況が戦争の煽りを受け最悪の時にこの世に生を享けるという、最初から恵まれぬ運命に遭遇していたのである。従って病気になっても、医者に充分診て貰う事さえ出来ないという悲しい現実に見舞われていたのである。
誉を出産した時の母は、確か四十三歳であった。かなりの高齢出産であるが、当時とすれば決して珍しい事ではなく、極く一般的に見られていた事は事実だ。但し母体に全く影響なしとは言えなかったのではないだろうか。
然し乍ら我が母は、家業の商いを止めてからは、頑健さでは多少問題があったにも拘わらず、子等の為に外に出て懸命に働いた。驚いた事に、天候に恵まれさえすれば、生後間もない末っ子の誉を背にしてまで、日雇い作業に出る始末だったのである。この事実は、生活状態がかなり緊迫した状況にあった事を物語っていると言えそうだ。
当時我が母は、栄養価の高い食べ物など口にする事は、極く極く少なかったように思う。僅かばかりの魚介類も大抵は一番の働き手である父や成長期にある子供達の側にのみ回り、母の口にはついぞ入らず終いになる事が多かったのではないだろうか。
そんな状態が原因となったと思われるが、誉が出生してからの授乳は当然の事らはかばかしい状況にはなかった。母は不足した分を満たす為に、何と、白米の粉をお湯で溶かした物をミルク代わりに誉に与えていた記憶が残っている。
現在では何処の薬店等に於いても、山積みにされ売られている粉ミルクなどは、あの時代特に農村に於いては何処の店にも無かった。但し缶入り練りミルクが少量乍ら市販されていたようにも耳にしたが、貧しい家庭にとっては容易に手が届く代物ではなかった。
可哀相なことに末弟・誉は、病気に侵されていても直ちに医者に診て貰うどころか栄養の面からも見放された形だったと思う。
忘れもしない、昭和十五年七月十八日朝の事である。その日も誉は、生まれてまだ半年余りのか弱い身体で、懸命に病と闘っていたのだが、残念なことに病状悪化の為、その泣き声さえも連続で泣き続ける事もなく、力のないか細い声に変っていた。
大分弱り果てた誉を母が見兼ねて父に、
「誉の様子がいつもと違う、今日はどうしても平舘の病院(隣の郡に在る専門医)に診てもらいたい」と訴えたのである。
父も誉の病状から察して止むなしと見たのであろうか、直ぐに準備して次の上り列車で行って来るよう母に伝えた。こうして母は病める弟をおんぶし、上り二番列車で平舘まで行くことになったのである。
私も弟の事が何となく気掛かりで、あの日の朝はある種の胸騒ぎさえも覚えるほどだった。然し遠くの学校に登校せねばならず、朝食後、後ろ髪を引かれる思いであったが、止む無く自転車を飛ばし登校した。
思えばあの夏の日の朝が可愛い弟・誉との最後の別れの日になってしまった。誉の事が気になりその日の授業は殆ど上の空だった記憶があるが、最終授業も終わり下校時になって、ふと誉の事が急に気になり出したのである。普段の日であれば、現在のクラブ活動に当たる陸上部のトレーニングに入る為、帰宅は何時も夕刻になるのだが、その日はどうしても参加する気になれず、先生の許しを得て急ぎ家路に向かったのである。
途中、保土坂地域あたりに達した時、私と反対方向の畑尋常小学校から帰って来る一団の児童達の中に六年生のA君がいたが、私を見掛けるなり、何か訳ありそうな声で呼び止めたのである。
何事だろうと、私は自転車を止めた。走り寄ったA君は、息をはずませながら驚くべき事を言ったのだ。
「繁さんちで、誰か死んだみてえだったよ」
A君は常にない真剣な顔で、然も気の毒そうに言うのである。
私は心底驚いた。急に足が地に着かない思いに駆られた。心配し恐れていた事が、現実のものとなってしまったのだ。それまで経験したこともない烈しいショックが私を襲っていた。その時、
「誉が死んだ!誉が死んでしまったんだよきっと!」
と、心の中で叫び続けていたような思いが今でも残っている。
兎に角、一刻も早く家に帰らなきゃ!と、一時は脳天を一撃されたような衝撃を味わった私であったが、やっと気を取り直し更に自転車を飛ばし、家に急行したのである。やはり突然の凶報で少なからず動転していたのであろうか、途中何処を何時通過したのか判らぬほどで、気が付いたら自宅の前に自転車を止め、茫然と立ち竦んでいた。
恐る恐る目を家の方に転じてみた。もう大分以前から、商店とは名のみで売るべき商品も殆ど無く開店休業状態の我が家であったが、それでも日中何時もなら店の正面入口のガラス戸に掛けられている、古いうす汚れの目立つ白地のカーテンだけは必ず開放されていたものだ。
然しその日は、まだ日が高いというのにカーテンも閉められ、家の中は静まり返っていた。やはり異常な雰囲気そのものだった。
「やはりA君の話は本当だったのだ」私は動揺する気持ちを無理に抑え、家の中に恐る恐る入った。
帰って来た私を囲炉裏の傍にいた母がみとめ、顔をくしゃくしゃにさせながら、
「繁こ(私の幼児からの愛称)、誉がなあ・・誉が死んでしまったよ」
と言って蚊の鳴くような声で誉の死を伝えた。
「どうして・・?医者に行ったのにどうしてなんだよ・・・」
私は母に糾していた。
「お医者さんの所まで、誉がもたなかったんだよ。平舘の駅でな、急に容体が悪くなって、死んでしまって、・・どうする事も・・出来なかったよ」
母はここまで言うなり感極まったのか、今度は声を出して泣き始めた。この時母の胸中には、誉が息を引き取った際の、切なくも悲しい場面が甦ったのだろう、さめざめと泣き続けるばかりであった。
二人の弟やまだ小さい妹も、何時もの元気さは何処へやら、悲しい顔で、涙に濡れた母の顔と私の顔を交互に見詰めているのみだった。気丈な父も流石にショックは隠し切れず悲しみをこらえているのか、囲炉裏の側で黙りこくったままだった。
やっと十三歳になったばかりの私には、母に甘える事はあっても、悲しみに打ちひしがれた母を慰める言葉など到底口にすることも出来ず、唯茫然と立ち尽くしたままだった。
暫くして、母の様子が少し鎮まりを見せたので、その日の悲しい経緯を聞く事が出来た。
朝、病める弟を背にして汽車に乗り、平舘駅に着いた母は、到着と同時に容体が急変した誉を見て動転したという。慌てた母は、夢中で弟を背中から降ろしたが、遺憾せん、その時の弟は呼吸が荒くなり始めており、最早一刻の猶予も許されぬ状態であったようだ。
母はどうする事も出来ず、弟を抱き抱え、無我夢中で「誉!誉!」と、名を呼び続けたという。然し、その時すでに遅く、誉は泣く力さえも消え失せたのか、母の必死の呼び掛けにも応じる事はなかったというのだ。
母の切なる祈りも空しく、間もなく誉はたった七ヶ月の短すぎる一生を了えて、
母の胸に抱かれたまま息絶えてしまった。
悲しいことに家族全員に看取られての旅立ちではなかったが、最愛の母に抱かれたままの最期はせめてもの救いであった。
不特定多数の乗降客がいる駅頭の事であるから、その瞬間も母の周囲には幾人かの客が居たようである。その時異常な情景に接した多くの人達が、心の籠った同情を寄せて下さったとの事。だが弟の誉は、そうした方々の御好意にも報ゆる事が叶わず、短い生命を閉じたのである。
さて、駅頭という特殊な場所で、然も衆人環視の中で、吾子の死に直面した母の衝撃的なショックの程は計り知れない程のものがあった筈である。
悔悟の涙と共に語る母の話を、黙して聞くのみの私自身も、心の底から湧いてくるしみじみとした哀れさを強く母に感じていたのである。
弟の誉は、店の奥に在る六畳の和室に静かに寝かされていた。
「ほまれ」と低い声で呼んでみたが、最早何の反応とてある筈もなく、目も口も硬く閉ざされたままであった。
「ちいちゃなほっぺ」を手で触ってみた。すでに小さな身体は硬直状態となっている為か少し硬かった。
あれから半世紀以上も経た今日に於いても、あの時の「ほっぺ」の感触を私は忘れることが出来ない。その時私は、何ものにも代えることが出来ない大切な存在を、突然失ってしまった気持ちになっていた。同時に幸せ薄かった末弟の短い一生が、あまりにも可哀相に思えて、万感胸に迫るものがあり、止めどなく涙が流れたのである。思えば私が、肉親の為に流した最初の悲しみの涙であった。
誉との最後の別れの日が来た。父が、誉の為に心を込めて可愛い小さな柩を造って呉れた。やがて納棺の時を迎え、誉とのお別れの場面となった。父が亡き誉になり代わり、
「皆さん、お世話になりました。可愛がって呉れて有難う」
と、家族みんなにお礼の言葉を言った。それまで皆んな必死に堪えていたが、この別れの言葉を聞き遂にこらえ切れず、家族皆んなで柩を囲み、堰を切ったように声を上げて泣き続けた。特に母は、誉に死をもたらしたのは、母親である私のせいだ。助けて欲しいと思って病院に行ったのに、こんな事になってしまって私が殺してしまったようなものだ。と、そんな意味の言葉を何回も絶叫し号泣したのである。
亡き誉の葬儀は家族だけで済ませようという事になり、残念乍ら親戚筋の方々の参加は一切見合わせて貰う事にした。
我が家の経済状態は人を大勢呼び集められる状態になかったので、そんな事情も要因の一つになった気もするのである。
梅雨も上がり夏の暑い日、亡き誉の告別の日がやって来た。野辺の送りは家族だけの寂しいものであったけれど、亡き誉にとっては自分を真実愛し可愛がって呉れた、文字通り肉親だけの温かい心の籠った葬儀となったのである。
誉の小さな柩は、母の希望もあって母方の祖父母の墓の間に、抱かれるような形で葬られた。後年わがM家の墓地がやっと定まった折に、誉の墓も移す事になり、生前の父が亡き母の傍らに可愛い墓石を建て、小さな魂を移し終える事が出来た。
さぞかし今頃は、あの可愛いほっぺの誉が、あの世とやらで母の胸に再び抱かれ、安心しきった顔で永久の眠りに就いて居る事だろう。そう思うと、現在の私は兄の一人として、心の底から救われる思いがするのである。
さて改めて追憶するに、末弟・誉の死は、我が父のせいでもなく、ましてや母のせいでもない。憎むべきは我が家の貧しさ故であったと言えるのかも知れぬ。だがその貧しさに至った根本原因は、国家の施策に翻弄され続けた為の結果であり、真に止むを得ない事情が山積した故の犠牲者の一人であったと思っている。
然し乍ら、原因はどうであったろうと、あの「小ちゃなほっぺ」の可愛い末弟・誉は再び私達家族の許には戻っては来なかった。
今生きて居るなら(平成元年現在)正に四十八歳の男盛り。高齢化するのみの私達兄弟を励まし救いの手を差し向ける事だってあったはずである。
一番若い兄弟として、社会的にも若さを売りものの活躍など充分に期待出来た筈だ。それらを思うと、唯々残念の極みである。
弟・誉の死は、私達兄弟にとって一番身近な存在であり、大切な肉親を失った最初の痛恨事であった。当時少年だった私の心に焼き付いて離れない悲しい悲しい出来事であった。
間もなく五十回忌を迎えることになるが、あの日の想い出は今も鮮明であり、悲しみも消えずに残っている。
今、末弟の誉にしてあげられる事は何一つ残っていない。今は唯、愛しき弟・誉の魂よ安らかにと祈る毎日である。
(平成元年二月二十日 記)
一、セコハン入学式
昭和十五年弥生三月、畑尋常小学校の六年生を、優等生二番の成績で目出度く卒業することになった私だが、六年間を通じ成績優秀であったとの理由で県教育委員会荒沢支部会長より特別表彰(副賞硯箱一個)を受ける事が出来た。
「先ずは目出度い、よかった!よかった!」ということで両親や家族を喜ばせることになった。
その日卒業式に参列した母は、式終了後催された謝恩会の席上で、五年六年の二年間私達のクラスを担任されたS校長先生より(当時戦時下の教員不足により校長といえどもクラス担任を務めていた)
「門前の小僧お経を読むというが、それにしても良く頑張る子だった」
とのお褒めの言葉を貰ったと言い、アルコールのせいもあったと思うが顔を少し紅潮させ意気揚々として帰宅したのである。
自分で言うのもおこがましいが、私の六年生卒業に至る迄の間は親に心配掛けるような言動はあまりせず、俗に云う「いい子」のままで推移して来た印象が強く残っている。但し私の親孝行もそこ迄で、今振り返ってみるとその後の私は決して「いい子」ではなかったと、今日に至るも悔悟と自戒を込めてそう思い続けている。
そんな私が、昭和十五年四月から村の中央部に位置する荒屋高等小学校の一年に進む事になった。旧荒沢村で高等科が併設されている小学校と云えば荒谷小学校只一校のみであった。我が家では兄と姉二人共この学校の高等科を了えている。
学校の在る荒屋新町までは遠い道程である為、夏季は自転車、冬季は列車通学となり何かと出費が嵩むことにもなったのである。私の場合雪の消えた春から秋十月末くらいまでは父専用だった自転車を利用し、風雨の強い日は別として颯爽とした自転車通学を敢行した。
高等科の生徒は言う迄もなく現在の中学一、二年生に相当する訳だが、今の中学生諸君には失礼だが所謂貫禄の差が大であると思えてならないのである。
当時下級の尋常科生徒から観た高等科生徒は、正に大人に接するような思いであった。側に近寄ることさえ恐い思いがしたほどで、一種の風格的なものさえ感じたものだ。事実高等科生徒にしてすでに豊かな人間味さえ見せて呉れる生徒さえ現実に現れたりした。
高等科に対する進学は、当時義務教育でなかった為か特に女生徒の進学は極めて少なく、私達のクラスからは女子十名中四名のみで半数にも満たない有様だった。他の者は六年生卒業と同時に殆ど農作業やその他の家事手伝いをやらされたのである。男子の方は十七名中二名欠けたのみだった。他は元気一杯進学することとなったが、私の場合は残念ながら恵まれた形での進学ではなかった。
別項でも述べているように、当時我が家の経済状態はかなりの厳しい状況にあった。その為にこそ、実は私の長い間の念願であり夢であった県都盛岡の中学校に進みたいとする願望が完全に閉ざされたのである。その無念の思いは今でも悔しさが込み上げてくるほどだ。
後年私達一家を苦しめて止まなかった太平洋戦争敗戦後の食糧難時代とは別の意味で、その頃の我が家の暮し向きは、かつてない苦しい時期に差し掛かっていたのである。
これは当時の貧しさの一つのサンプルだが、六年生時代私の通学用普段着は、上衣下衣を問わずポケットに物を入れるどころか、手を差し込むことさえ不可能な程の継ぎ接ぎだらけのボロ服を身に纏っていた。勿論そうした状態は私一人だけではなく、吾が弟妹達の服装も私と大差のない貧しい身なりであった。恵まれた現世の少年少女達の姿からは、到底想像さえ出来ない服装と言えるのではないだろうか。
六年生迄は直ぐ自宅前の小学校でもあり、また周りの生徒達の姿もそれほど恵まれたものではなかった。山間の小学校でもあり、ある程度のボロ服でも特別劣等感など感じたことは無かったように思う。
但し今度進学する高等小学校は、村内各地に在る四つの小学校から集ってくる生徒達の中に混じって、今迄の身なりでは通用する筈はないと親は考えたようだ。六年迄の畑小学校から見れば、村中央の荒屋高等小学校は、何となしに都会風の学校に見えていたことは確かなことだと思う。
厳しい生活と闘っている両親の悩みは、高等科に進むことになった私に、それに相応しい服装をさせてやりたい、特に冬季の列車通学にボロ服を纏っての通学では、あまりにも可哀相だと考えていたようだ。然し乍ら苦しい家計の中からは、私の通学服の調達はままならぬ事だったのである。
かつては、農村では珍しいほど裕福な生活を営んでいた我が家であったが、昭和十二年支那事変勃発あたりを境に、次第に下降線を辿り始めていた。
昭和十五年(一九四〇)には政府の方針で完全なる物品統制の世となり、我が家の商売は決定的ダメージを蒙るに至ったのである。思うように商品が入らず、家業の商いを続けてゆく事の難しさを知った両親は、遂に商売を諦め店を閉めて、止むなく慣れない日雇作業に出て働くことを考えたのである。
この転換がまた大変なことで、なにせ天候に左右される屋外作業である為収入が少しも安定せず、働いても働いても食べるだけで精一杯といった状態が続いていたように思う。そんな状況下では、私の通学服にまでは手が届かなかったのが本音だったように思う。
母はいろいろと思い悩んだ挙句、昔父が使用した品で昭和初期流行したといわれるラシャ生地の詰襟服をタンスの奥から引っぱり出し私に着せる事を思いついたのである。
この黒みがかった霜降り状の洋服は、昔父が商用で盛岡市を訪れる場合よく愛用した品だったようだ。同じ生地、形状の物は私の小学校低学年時代、学校の先生方もかなりの確率で愛用していた事を覚えている。
昔の父は単に衣服だけに止まらず、あらゆる面で時代の先端をゆく進んだ物を愛用し得意になっていた時代もあったようだ。当時はそれだけ恵まれた生活であったことが伺えるのである。
かくして、昔父が愛用したという外出着が緊急対策用としてタンスの底から引き出され、再び陽の目を見ることに相成ったという訳だ。
地が厚く目の細かい毛織物で造られてはいたが、何と言っても色形共に古く、おまけに十三歳の私の体躯には少々だぶつき気味であった。更にまたラシャ製の冬物であったから、着てみるとずっしりと重く、どう見ても春の入学式には似合いそうもない代物だったのである。
さて上衣は取り敢えずそれで我慢することにして何とか都合出来たが、その下に履くズボンはどうするという事になった。これも母の苦肉の策だったろうが、これ又父の一張羅として大事にしていた良質の夏季用白ズボンを、母が黒に染め直し急場を凌ぐことに決まったのである。
この様にして、私の高等小学校入学の準備は曲がりなりにも一応整ったことになり、母もほっと安堵の色を見せたものだ。
日増しに寒い寒い寒気が北に移動し、里の雪も殆ど消えやがて陽春四月高等科の入学式を迎えることとなった。小学校尋常科入学とは異なり、高等科の入学は流石に親の付き添い姿は希少であったが、新入生一同は皆緊張の面持ちで集まって来た。
時に昭和十五年(一九四〇)、政府決定により「国民徴用令公布」とか戦時の為修学旅行の制限。都市部では一人一日二合五勺の米配給制実施等々、戦時色の濃い制度が多く打ち出される世に変化しつつあった。そうした中にあって農村生活は、昭和初期の大恐慌時代に比較すれば若干であるが、向上の兆しも見られたものだ。
その日、村内四つの小学校を卒えて高等科一学年として入学すべく登校してきた新入生の服装は、六、七割方新調の学生服だった。それ以外の者でも中古品乍ら所謂式典用としての一張羅の洋服姿だった。
新入生八十余名、晴れがましい連中の中に在って私は、父のだぶだぶの払い下げ品を身に着け、然もアンバランス(上は冬物、下は夏用)なスタイルで、それでも胸を張って登校、式に参列したのである。
周囲を見渡したところでは、異様な形をした生徒はやはり私一人であったように実感したものだ。流石にちょっぴり恥ずかしい思いもしたが、それでも継ぎ接ぎだらけの学生服よりはましであり、これで良かったんだと母に感謝したくらいだった。
他校から来た新入生の一人が、私の一寸変わった服装を見て言った。
「お前変わった珍しい服着てるなあ!まるで先生みてえだぞ!」
この言葉はどんな風にも受け取れ、本来なら大変気にするところであるが、たとえセコハンであろうと、やっと入学式の服装を整えて呉れた親の切ない気持を想えば、さほど屈辱的なものには感じなかった。
然し乍ら私も十三歳の少年、出来ることなら入学式には人並に新しい洋服を着て参列したかった。だがそれは到底無理な相談と知ったその日から、諦めの心境が先立ちあとは我慢と忍耐しかないと考えていた。
例えば周囲の者に希異の目で見られようと、悔しさのあまりその事を親に訴えて、悲しみを与えることなど思いも寄らぬことであった。
悲しい事なのかも知れないが、貧しさの中に生きるという事は、如何なる辛さにも耐え続ける事なのかもしれない。十三歳という年齢は家計の苦しさをある程度知り得る年齢であったのかと、当時を思い改めて懐旧の念に駆られる私である。
入学式も無事終えて季節は変わり初夏を迎えていた。重く不釣り合いなラシャの上着は脱ぎ捨てて、気も晴々とした学校生活を送っていたが、やがて季節は変わり少し涼しげな初秋を迎えようとしていた。
そのころ県都盛岡市中央の城跡公園を埋め尽くして、「興亜博覧会」と銘打った大きなイベントが開催されていた。演し物や展示品などは時代を反映し、戦時色の濃いものが多かったように記憶している。荒屋小でも他校に習い高等科生徒は、一、二年を問わず全員参加で行くことに決まった。
ところが一難去って又も一難、この事が再び両親を困らせる事態となった。その見学会に私が着てゆくべき相応しい服が無いのだ。
他の地方都市とか他町村ならまだしも、今度の行き先は岩手の中心部盛岡市である。母は、親として子供を貧しい身形のままで送り出す訳にはゆかぬと見ていたのである。
学校の教室内は目前に迫った博覧会見学の話題で沸き返ることが多かった。その賑やかさから皆が一様に期待し、如何に楽しみに待っているかが読み取ることが出来た。そんな楽しげな状況の中で、私の胸中はやはり沈みがちであった。
「不参加など考えられないことだ。何としても皆んなと行きたい」
思い余った私は悲しげな顔の母に相談を持ちかけた。
「普段着だっていいんだ。小遣銭も要らねえよ、どうしても皆んなと行きてえよ!」と母にせがんだのである。
母は表情を強張らせ言い含めるように「ボロ服を着せて盛岡には出してやれないんだよ」の一点張りであった。
ボロでは駄目だ、然しその外には着るものなしでは、下手をすると皆んなが参加する博覧会見学の一行から、食み出してしまう事にもなりかねないのだ。私は、ふとそんな不安がよぎる様になっていた。
母は、日毎に明るさと元気さを失ってゆく私の顔を見て、何とかして参加させてやりたいと、いろいろと手を尽くして呉れていたように思う。
思い悩んだ末の母は、母の生家に甥の義見夫婦を訪ね事情を話し、
「長男の邦守(私より一歳上)の服で貸して貰えそうな物があったら、一日だけでいい是非貸して呉れないか」と、相談を持ち込んだのである。
ところが息子の邦守もやはり博覧会見学に参加するのである。その時邦守の母曰く、
「今の季節着る一張羅の服は、盛岡に着てゆくので貸せないが、夏の上着でもいいなら貸せるよ」と言って呉れたのである。
借り物の夏服を抱えて帰宅した母は、淋しげな顔の私に、
「邦守の夏服だども、これで我慢するか」と言った。
一瞬相好を崩した私は、母の生家の人々に心から感謝しつつ、
「そうか!邦守の服貸して呉れたのか!夏服でもええんだよ。これでやっと行ける!」
あの時は本当に嬉しさが込み上げたものである。半ば諦めかけていたのだから邦守一家の親切には感謝の念で一杯だった。
かくして博覧会見学当日、借り物の夏服上着を身に纏い、母の心尽くしのおにぎり弁当を手に、友人達と手を携えて、念願の興亜博覧会見学に出かける幸せに浴したのである。
その日、岩手公園に鎮座して在る南部中尉の銅像前で、先生や学友達と一緒に撮った写真を見ると、皆んなと異なる夏服を着て、特に目立つ場所に悪びれた顔もせず、堂々と胸を張って立っている自分の姿がある。
極度の窮乏生活の只中に在って、その都度悩み続けた頃の辛かった想い出は、振り返ってみてやはり胸を打つものがある。
私が家族によく指摘される事で、特に衣服を極端なほど大事にする習性がある。この事実は特に小学校高学年の頃始まったように記憶している。あの頃の耐乏生活が今も尚脈々と生きているように思うのである。
自分が身に纏う衣料品全般について言える事だが、異常なほど大事にする傾向があり、今では自分でも異質に思えることさえある。
周囲の人々は、そんな古い物捨ててしまえばとよく言うが、泣きたい程辛かった昔の事を想うと、簡単に処分する気にはどうしてもなれないのである。
この気持は自然に備わったものであり私の処世訓でもあるのだから。
(昭和六十三年十一月三日 記)
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