師走
あっと言う間に十二月がやってきました。
十二月の異名は「師走」です。その他にも「春待月(はるまちつき)」、「暮来月(くれこづき)」などと呼ぶそうですが、十二ヶ月の異名の中で「師走」は一番知名度が高いと言えるのではないでしょうか。
一月から開始した「綾部ふゆ的*随筆」も、今回で十二回目。
皆さん、お楽しみいただけたでしょうか?
他ならぬ日本人の方々に「日本の文化っておもしろいんじゃん!」と思って頂くことを目標にした企画でございました。そのように感じて頂けたら幸いです。
今年は、三月十一日に未曾有の大震災が起こりました。
九ヶ月経った今でも、東北地方の方々だけでなく、日本に住まう一人一人が、これからのことを考え、行動に移すという行為を求められています。
こうして言葉にしてしまえば簡単ですが、「これからのこと」は、手探りでしか掴めないものだと思います。そして、「これからのこと」を考え、それらを手にする上で大切なのは、「今までのこと」にも目を向けてみることだと思います。
私たちは過去を経て、今を生き、未来に向かっていきます。
昔を思い出して、あの頃は良かった、あの時は素晴らしかったと思うだけではなく、そこから何を学び、何を抽出するのか。それが、これからの私たちに求められているのではないでしょうか。
震災と関連づけて言えば、私がご紹介してきたことは、直接的には関係ないものです。
人は、残念ながら、豊潤な文学や音楽などがなくても生きていけます。
ですが、豊潤な文学や音楽などが人に希望や勇気を与え、時に良き教師となり得ることも確かだと信じています。
海を渡ってやってきた文化を尊ぶ感覚は、今もなお私たちの身近に存在します。
海外の文化を歓迎し、受け入れ、ゆっくりと時間をかけて自分たちの良いように変えてしまう。これこそが、日本という国が豊かになった理由のひとつなのだと思いますが、それは同時に、今まで大切に育まれてきた習わしや感性を消し去ってしまうという危険を孕んでいます。
昔のものが全て良いという訳ではありません。悪習も確かにあるでしょう。ですが、古の時代を生きていた人々が育んできた物事に目を向けて、自分が今どこにいるのかを確かめられたらいいなと、私自身は考えています。
今回のこの企画を通して、私は、日本文化の面白さを再確認すると同時に、奥の深さも改めて知ることができました。
追い掛けても追い掛けても捕まえられない、なにか、とても美しい生き物を見た思いです。
ですが、だからこそ、その美しさが忘れられません。
また、もっともっと、シンプルなものを再確認できたという思いもあります。
それは、日々の暮らしに感謝をすることです。
梅、桃、桜の花が咲いたことを知って、春を迎えられて良かったと思い、初夏の青葉の美しさに気づいて夏の訪れを知り、盛夏の暑さに辟易しながらも、夕暮れ時の涼しさに、あ、気持ち良いなと思う。風が運ぶ香りや、木々の紅葉で秋に気づいて、朝夕の寒さから冬の到来を知る。そして、冬が過ぎれば、また春がやってくる、この、当たり前の日々が掛け替えのないものだと実感することができました。
毎日、良いことも苦しいこともある。けれど、だからこそ、生きていることは素晴らしい。本当に、単純なことですが、今はこのことを心から感じています。
昔の通りの年中行事を行なうことは、現代社会を生きる私たちには難しいものです。
それでも、四季の移ろいを美しいと思い、日々の暮らしに感謝する思いは、変わらないといいと、そう思います。
皆さま、どうぞ良い年末をお過ごし下さい。
そして、来年が、皆さまおひとりおひとりにとって、実りある年となりますように。
またお会いしましょう!
ありがとうございました!
(平成二十三年師走)
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霜月
早いもので、もう十一月です。今年の秋冬は寒暖の差が激しい妙なお天気の日が多いですが、吹く風や朝晩の寒さから、冬になりつつあるのだということを確かに実感させられます。
十一月の異名は「霜月」。由来は、他の月と同様に諸説あるようですが、「霜降月(しもふりつき)」という言葉が省略され「霜月」になったというものが有名ですね。
さて今月は「旧暦」について、一緒に学んでみたいと思います。
日本文化の扉を叩くとひょっこりと姿を見せる、この「旧暦」という言葉ですが、なんだか曖昧で、ちょっとよく分からないなぁというのが、旧暦に対するイメージかと思います。
来月はいよいよ「師走」ということで、来年の皆さまの毎日がより豊かなものになるように、旧暦って結局はなんなのだろう? ということを考えていこうと思います。
まず、「旧暦」という言葉についてですが、これは、漢字の並びが表す通り「現在私たちが使用している暦(新暦)よりも古い(旧い)暦」という意味です。「西『洋』」からやってきた服を「『洋』服」と名付けたから、日本人である自分たちが着ている衣服を「『和』服」と呼ぼう! という動きと同じものですね。なので、「新暦」・「旧暦」という暦が存在しているわけではなく、便宜上、現行の暦を「新暦」と呼び、それ以前に使用されていた暦を「旧暦」と呼んでいるのです。
では、「新暦」と「旧暦」はどのようなもので、どう違うのでしょうか。
「新暦」は、ご存知の通り「グレゴリオ暦」です。「グレゴリオ暦」は「太陽暦」のひとつで、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基準にしている暦です。日本では、明治六年から使用されています。
一月二月三月……と順番に十二月まであり、その大きな決まりが動くことはありません。なんて、確認しなくても大丈夫ですネ。
一方、「旧暦」は、少しフクザツです。その理由として、「新暦」よりも前の暦は度々改暦されており、寛政暦・宝暦暦など、幾つか暦法(暦を作る基準・方法)が存在しました。そのため、「新暦」のように「旧暦は○○暦です」というような表現ができないことが挙げられます。
また、「旧暦」は現在では使用されていない暦なので、公的な機関が暦を作成しているわけではありません。ですが、書店やネットには色々な種類の「旧暦カレンダー」があります。あれらは、暦に詳しい方々が昔の暦(主に江戸時代後期の暦「天保暦」)の計算法をお手本にしながら計算なさっているのです。
話をまとめると、「『旧暦』は、限りなく『天保暦』に近い暦」ということになるでしょうか。
それでは次に「旧暦」の仕組みについてですが、「旧暦」は月の満ち欠けを元に暦を決める「太陰暦(たいいんれき)」の一種です。お月様が基準なので、新月が一日ということになります。そして、一年のはじめを「立春」の辺りに据えること、暦の算出に「二十四節気(にじゅうしせっき:暦と季節のズレを少なくするために編み出された、季節に貼る付箋のようなもの。「立春」や「夏至」、「立秋」「大寒」などなど)」が深く関わっていることも、大きなポイントだと言えます。
まだまだ春の兆しなんかこれっぽっちも感じられない元旦に届く年賀状に、大きく「初春!」や「新春のお慶びを申し上げます!」と書かれているのは、旧暦時代の一年のはじめが、春を示す「立春」におかれていたことに由来するのですね。
さらに、「旧暦」には「閏月」というものがあり、三年に一度のペースで、一年が十三ヶ月になります。その「閏月」がどの辺りにくるのかは、毎年計算しないと分からないのだそうです。うーん、フクザツですねえ。
このように、一年十二ヶ月のシンプルな新暦とは違い、旧暦は非常に入り組んだ構造をしています。
細かな計算法や月の決め方は綾部の専門分野ではありませんので割愛させていただきますが、恐らく皆さんが気になるのは、「新暦と旧暦の違いはなんとなーく分かったけど、じゃあ今って、旧暦で何月何日なのだろう?」ということではないかなと思います。
実は、それを手っ取り早く知る方法が、たったひとつだけあるのです!
それは……、旧暦カレンダーをご覧になることです!
と言うか、それしか方法がないと言っても過言じゃあありません。
なぜなら、繰り返しますが旧暦の計算法はトッテモ難しいので、簡単に割り出せるものではありません。なので、「今は旧暦で何月何日?」という疑問を解消するためには、旧暦のカレンダーを入手した方がずっと簡単なのです。
これは、私たちがいわゆる「現代人」だから暦が算出できないのではなく、新暦以前の時代の人々も同じことをしていました。当時の人々は、年末に翌年のカレンダーが売り出されるまで、翌年が何ヶ月あるのかすら分からなかったと言われています。
上記の通り、厳密な暦を知るには旧暦カレンダーが必須ですが、旧暦は新暦と大体一ヶ月ほどのズレがあります。旧暦の方がひと月ほど遅れていると考えて良いかと思いますので、なんとなーく、旧暦の季節を知りたい場合は、このように考えてみることをオススメします。綾部はよく混乱しますが……!
近年、旧暦を暮らしに取り入れる方が増えているようです。
現行の暦だけで日々を過ごしてもなんの不便もありませんが、旧暦を暮らしに取り入れてみると、年中行事や文学なども、より楽しく思えるかもしれません。
我が国には、季節を彩る美しい言葉が数多くあります。それらの言葉を自分の内側にぐっと引き寄せる上でも、旧暦はきっと役に立つことでしょう。
(平成二十三年霜月)
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神無月
少し前に重陽のお節句が過ぎたような気がしていましたが、気付けば十月です。
日中の陽射しは暖かいですが、朝晩の風からは初冬の気配がしますね。
十月の異名は「神無月」。「神」の文字が入る、一風変わった名前の月です。
「神無月」の由来で最もよく語られているのは、「日本中の神々が出雲大社に集うために、神様が留守にするから『神のいない月』で『神無月』」というものでしょうか。
このことを初めて知った時、私は、美しい衣の裾をたなびかせて出雲へと向かう神々の姿を想像しながら、神様たちの世界にも通勤ラッシュがあるのかな、などと考えていました。今思えばバチ当たりですね!
出雲大社のある島根県では、「神無月」を「神在月(かみありづき)」と呼ぶと言います。実際に、以前、島根県出身の知人に尋ねてみたところ、「神在月と呼ぶ」とのことでした。
出雲大社に集まった神々の議題は、もっぱら、人々の縁結びについてであると言われています。それは、出雲大社にお祀りされている神様が、人々の縁結びを司る「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」だからだそうです。ここで言う「縁結び」の「縁」とは、恋愛に関することだけを言うのではなく、人々が平和な暮らしを営むために必要な、すべての「ご縁」のことを言います。
そこで、思い出す言葉がひとつあります。それは、聖徳太子が制定したとされる「十七条憲法」にある「和を以て貴しとなす」という言葉です。
当時は国を治めることと、神々をお祀りすることは、切っても切り離せないものでした。「大国主大神」は、日本を造った神様であるとされていますので、聖徳太子は、「『大国主大神』の力(=人々のご縁を結ぶこと)」を念頭に置いていたに違いありません。
しかしながら、上記の説は後世の人々の創作であるとも言われています。
この月は、「『神嘗祭(かんなめさい:豊作を神様に感謝するお祭り)』を行なう月」であり、「神嘗祭の月」が転じて「神無月」になったようです。この場合の「神無月」の「無」という文字は、六月の異名である「水無月」の「無」と同様に、「の」という連体助詞になるのですね。
どちらにしても、神々の存在が生活の中に当たり前のように浸透していた時代に生まれた言葉が、今もなお広く使われていることは、とても興味深いです。
前置きが長くなりましたが、そんな十月は「雅楽」を聴きに行きませんか?と、お誘いしてみたいと思います。
「雅楽」という文字を初めて目にされた方も、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。和式の結婚式で流れる、ぷぉーっという感じの和風な音楽、と言えばピンときて下さるでしょうか。
雅楽は、古来から日本に存在した「神楽歌(かぐらうた)」・「大和歌(やまとうた)」・「久米歌(くめうた)」などと、奈良時代に朝鮮半島や中国などから伝来した音楽が融合した音楽です。その音楽に合わせて舞を舞うこともあり、その場合は「舞楽(ぶがく)」と呼ばれます。宮廷音楽として栄え、平安時代に全盛期を迎えました。
楽器は、元々日本にあった「神楽笛(かぐらぶえ)」や「和琴(わごん)」の他、外来の「笙(しょう)」や「篳篥(ひちりき)」という管楽器、「筝(そう)」や「琵琶(びわ)」という弦楽器、「鞨鼓(かっこ)」や「太鼓」などの打楽器があります。
どの楽器も好きなアヤベですが、雅楽において特に気に入っているのは「笙」という楽器です。これは上記の通り管楽器なのですが、「日の光が降り注ぐさまを表した音色」であると、以前、見聞きしたことがあります。
そんなイメージを抱いて演奏を聴いてみると、実に神々しくて素敵なんですねえ。
演奏は、上記でご紹介した楽器で合奏するスタイルです。幾重にも重なる音から金色の鳳凰が生まれて、演奏に合わせて飛んでいるようなんです。
舞楽もまた、力強さと美しさがあり、私の未熟な筆ではその良さをうまくお伝えできません。百聞は……ということで、是非ご覧になっていただきたいです。
ゆっくりと、腰を落とした低い姿勢で腕を伸ばしたり、大きく足を開いたりする舞は、舞そのものがひとつの強力なおまじないのようで、目が離せなくなりますよ!
また、実際に聴いてみるとよく分かるのですが、雅楽の曲は、全てがものすごく!それはもう、ものすごくゆっくりなんです。音楽がゆっくりなので、もちろん、舞もゆっくりです。しかも、現在の音楽とは大分違いますので、初めて聴かれる方は戸惑うかもしれません。
ですが、私は、雅楽のゆっくりとしたテンポは、雅楽が栄えた時代の人々が感じていた、時間の流れの速さと同じものなのではないかと思うのです。
平安時代の貴族たちは、歩く速度がとても遅かったと高校生の頃に古典の先生に教わりました。その時、先生が歩く真似をしてくれたのですが、その遅さと言ったら!例えて言うなら、石畳の道があるとして、その石畳を一枚一枚確認しながら歩くような、そんな速度だったのです。
初めて演奏会に行ったのは、去年の十一月だったと記憶しています。
ゆっくりとした演奏を聴きながら、私は、千年以上前の人々が体感していた時間の流れを、束の間、体験したような気分になっていました。
雅楽の演奏会は定期的に様々なところで開催されています。
主なところでは、本家本元!宮内庁が、春と秋にそれぞれ演奏会を開催しています。
こちらは、ホームページで申し込みができますので、チェックしてみて下さい。
【宮内庁ホームページ:参賀・参観・申込ページに演奏会の項目があります】
http://www.kunaicho.go.jp/
その他、アマチュアの方々による演奏会もありますので、ご興味があれば是非足を運んでみて下さい。
皆さまは、雅楽を聴いてどのような感想を持たれるでしょうか。
是非感想をお聞かせください。
(平成二十三年神無月)
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長月
残暑の厳しい毎日が続いておりますが、皆さまはお変わりありませんか?
暦の上では秋になりました。菊に長寿を祈り、邪気を祓う「重陽の節句」も過ぎ、「草花に朝露が宿る頃」という意味を持つ「白露」も数日前に過ぎました。なのに日中の暑さと言ったら! 雲の多い日でも気温が高く、日中は真夏かと思ってしまうほどですが、夕暮れ時を過ぎた途端に秋の虫の声が方々から聞こえてきて、ああ、やっぱり秋なのだなぁと思います。
桜が満開になる頃や、陽射しが強い盛夏、美しい紅葉の頃、厳しくも凛とした寒さの雪の頃など、その時々の季節をはっきりと感じる時期ももちろん赴きがあって良いのですが、私は青葉の美しい五月頃や、ちょうど今のような季節の変わり目も大好きです。
季節の変わり目は体調を崩しやすいと言いますので注意が必要ですが、一歩一歩、あるいは、ゆっくりとページを捲るように、ほんの少しずつ変わっていく季節の気配を大切に過ごしていきたいといつも思います。
九月の異名は「長月」。由来は諸説あるようですが、現在最もポピュラーなのは「夜が長くなる」から「長月」という説のようです。旧暦と新暦はひと月程ずれているので異名の由来を考える時に混乱しがちですが、旧暦に合わせても新暦に合わせても、日々日が短くなっていくという点では、ズレがないように思いますね。
秋と言えば、皆さまは何を思い浮かべますか?
重陽のお節句、お月見、紅葉、焼き芋や栗、最近ではハロウィンでしょうか。
これらをひとつひとつご紹介するのも面白いのですが、今回は、古来から人々に親しまれてきた伝統的なデザイン=「文様」を通して秋を楽しんでみたいと思います。
ここ数年で、いわゆる「和風」のデザインの洋服や小物をたくさん見かけるようになりました。Tシャツやジーンズ、スニーカーやシャツ、帽子などに文様が組み込まれているものを町中でもよく見ますね。
自然や動物、幾何学模様など様々な種類のある文様ですが、泡坂妻夫序文『日本の伝統デザイン』によると、信仰の対象を図形化したことが文様の始まりとされています。それが時代の流れと共にパターン化され、日常的なものに浸透していったそうです。その中でも特に幾何学模様は力が強いとされており、平安時代に活躍した陰陽師、安倍晴明は呪符に五芒星を用いていました。また、三角形を組み合わせた鱗の文様は強力な魔除けの力があるとされています。
幾何学模様に限らず、文様には全て縁起のいい意味が込められているので、それらを学ぶのもとても楽しいと思います。
その他、自然の文様は、信仰や魔除けの意味も大いにあったと思いますが、それ以外にも、単純に花鳥風月を愛でるために、身近なものに取り入れられてきたのではないでしょうか。
春には春の草花や景色を、夏には涼しげなモチーフを、秋には秋らしい落ち着いた色合いのものを、そして冬には彩度の低いものか、逆に温かみのあるものを身につけたくなります。
それは、昔の人々も同じ思いだったようです。
今の時期でしたら、月と秋草を組み合わせた文様の小物を持ったり、思い切って着物や洋服、ヘアアクセサリーを見つけてみるのはいかがでしょう。先達てはとてもとても月が綺麗でした。それらの文様を身につけている人を見たら、ちょっと「おっ」と思っちゃいますよね。
秋の文様と言えば、やはり「月」や「秋の七草」、それと個人的には「蜻蛉」もいいなと思います。
えー? 「秋の七草」ってなに? と思われた方! お目が高いです。そうです。「春の七草」があるように、実は「秋の七草」もあるのです。夏と冬はないのかって? うむー、今のところ、聞いたことがありませんねえ。
さてさて。「秋の七草」ですが、ご存知の方も是非<いっしょにおさらいしてみましょう!
萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 をみなへし また藤袴 朝貌が花
(はぎのはな おばな くずばな なでしこのはな おみなえし またふじばかま あさがおがはな)
これは、山上憶良が詠んだもので、『万葉集』に収められています。
順に「萩、薄(すすき)、葛(くず)、撫子、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗」を指します。最後の「朝貌」は諸説あるようですが、桔梗が有力だそうです。
実は浴衣の柄には秋の文様が多いことをご存知ですか? 浴衣に敢えて秋の文様を用いることで、涼しさを取り入れようという知恵とお洒落心なのです。実に素敵ですよねぇ。
先に挙げた「蜻蛉」は春から秋にかけて見られる昆虫ですが、「赤とんぼ」の歌のためか秋の文様とされがちです。しかし、季節を問わず「勝ち虫」の別名で武士の人々に愛されてきました。なぜかと言うと、蜻蛉は前進しかしません。その動きが、退かぬ事を美徳とした彼らの琴線に触れたのでしょう。武具に多く蜻蛉の文様を見ることができます。
基本的にどのような文様にも興味がありますし、よいなぁと思う綾部ですが、忘れられないほどに美しい文様に出会ったことがあります。
それは去年の冬のことでした。とある会館で見せてもらった白無垢の打ち掛けに、縁起の良い四季の花々と鶯が銀糸で刺繍されていたのですが、一目見た瞬間、文様の世界に引き込まれるような、文様そのものが浮かび上がってくるような錯覚に陥りました。
皆さんも、お気に入りの文様を是非見つけてみてください。
お名前にちなんだもの、生まれた季節にちなんだものなど、ひとつそう言った文様を見つけて、文様から力をもらってもらえたら、古来から培われてきた、人々の美意識や知恵、思いに親しんでもらえたらと思います。
(平成二十三年長月)
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葉月
暦の上では立秋を迎え、秋の気配が少しずつ近付いてきておりますが、蝉の声もようやく方々から聞こえてくるようになり、連日の暑さも相俟って、まさに盛夏という感じですね。
八月はお盆をはじめ、原爆忌や終戦記念日など、故人を偲んだり、過去を振り返ることを促す機会が数多くあります。
夏と言えば花火大会や怪談ですが、これらも元々は、慰霊のための催しものだったことをご存知でしたか?
最も古い花火大会は、一七三三年五月二十八日に行なわれた「両国川開き」で、大凶作と疫病で亡くなった人々を供養するために上げた約二十発の献上花火が、江戸の空を彩りました。
その後、花火師たちが納涼を楽しむ船の間を回って花火を売り、次第に「花火と言えば納涼のためのもの」というイメージが固まっていったのですね。
このことを踏まえると、花火を見る目もほんの少しばかり変わります。
怪談は、あの世に関する話をしていくことそのものが、供養や鎮魂に繋がると言います。
余談ですが、薩摩琵琶の演奏曲の中に「くずれ」というものがあります。それは、主に合戦の状況を再現した曲なのですが、これは元々、(古)戦場に赴いた僧侶が「あなた方はこのように戦って命を落とされました。さあ、どうか安らかにお眠り下さい」という意味を込めて弾く曲だったと教わりました。
あの世のこと、あの世の人々のことを具に語る怪談も、この「くずれ」と同様の働きをするのではないだろうかと、私は密かに考えています。
長い年月を経たがゆえに、本来の意味を離れて形だけ残ってしまった行事も数多くあるかもしれませんが、タイムマシンに乗った気持ちで時間を遡り、「記念すべき第一回目のイベントって、どこで誰がなんのためにやったのよ?」なんて気持ちで調べてみると、新たな発見があるかもしれません。
さて、この随筆を読んで下さっている方はお察しかもしれませんが、綾部はおばあちゃん子です。幼い頃、多忙だった両親に代わり、祖母がよく私の面倒をみてくれていました。
八月になると思い出すのは、夕陽が沈み切っていない時間に祖母と姉と三人でお風呂に入り、浴衣を着て近所の盆踊りに行った幼い頃の光景です。
暑い中で入るお風呂は熱くて仕方がありませんでしたが、肩までつかりなさいと言われたことや、お風呂から出た後の宵の風の涼しさは、長じた今でもふんわりと思い出すことができます。
先日、祖母と家族でかつての家の辺りに行ってみましたが、新しい家が立ち並び、昔の面影はほんの少し、古くから営業しているお店や、周囲の森などの風景に残っているのみでした。
もう二度とあの場所に行けないのだと思うと寂しくなりますが、とても甘やかな気持ちにもなります。
夏の日は暑い暑いと言ってカラスの行水宜しく、ぱぱっとシャワーで済ませてしまいがちですが、冷房や冷たい飲み物で体が冷える夏だからこそ、お風呂に入りたいですね!
今回は、福田有宵監修『和ごよみの暮らし』という本に書いてあった「緑茶風呂」なるものをご紹介したいと思います。以下は『和ごよみの暮らし』より引用させて頂きました。
緑茶風呂
茶葉を布袋(お茶パックや編目の極細かいネットでも)に入れ、口元をしっかりしばって水から浴槽に入れる。
風呂に入りながら袋をもんでエキスを出す。
これだけです。実にシンプルでございます。
たぶん、茶葉の量は目分量です。
数多くのお手軽な入浴剤がありますが、こんな感じのお風呂に入るのも素敵ではないでしょうか。お肌がすっきりするらしい。なんと……!
また、近年では浴衣を着て夏祭りに出掛ける若い子達も珍しくなくなりましたね。
とても嬉しいことです。
浴衣はもともと「湯帷子(ゆかたびら)」と言い、平安時代の貴族たちが蒸し風呂に入る際に着ていた着物であるとされています。当時は綿が高級品だったために、湯帷子は麻で作られていました。その後、武家の時代に入ると湯上がりに着用するようになり、江戸時代中期頃から庶民にも普及し、外出着になりました。
去年か一昨年あたりからの流行りでしょうか、帯揚げや帯留めを浴衣に付けるコーディネートが若い世代を中心に増えていますが、浴衣の成り立ちを知っている頭のカタイわたくしなどは、うーんと腕組みをしてしまいます。
さらりとシンプルに着る着方も、是非先達から学んで欲しいなぁと思います。
西洋風の派手で大きめの柄も、現代の町並みに調和して華やかさを感じますが、古来からの柄は、やはりよいものです。
昼には白地のものを着て涼しげに、夜には紺色(または藍色)のものを着て虫除けを兼ねるなど、単なる衣類としてではなく、人々の知恵も込めてあるものです。お祭りだけでなく、気心の知れたお友だちとのお食事や、ちょっとしたお出掛けなどにも着て行きたくなりますね。
秋を色濃く感じるようになるには、もう少し時間がかかるでしょうか。
暑い日が続いて参ってしまいますが、暑さと上手に付き合いながら、夏の時間を楽しみたいものです。
(平成二十三年葉月)
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文月
七月になりました。
七月と言えば、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。
七夕、海開き、祇園祭、天神祭、夏休み、試験期間、お中元、お盆などなど、色々と思い浮かぶかと思います。いよいよ陽射しも強くなり、夏が来たという気持ちになりますね。
今年は六月の下旬辺りから猛暑が続き、何かと過ごしにくい日が続いておりますが、体調を崩さずに夏を乗り越えたいものです。皆さまも、どうぞご自愛下さい。
さて、そんな七月のテーマは「お盆」です。
地域によっては既に盆踊りを開催しているところも数多くありますね。私の住んでいる町では、盆踊りは大体、今月の下旬から上旬辺りに方々の神社仏閣で催されます。
夏の夜に、やぐらを彩るようにして提げられた提灯の灯りがとても美しく、ノスタルジックで、個人的にも大好きな行事の一つです。
七月に入ると、そこかしこから「オボン、オボン」と聞こえ始めますが、「お盆」とは一体、どのような意味を持つものなのでしょうか。
「お盆」とは、仏教行事の「盂蘭盆(うらぼん)」または「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と、古神道(仏教以前の日本の宗教)での先祖供養の儀式や神事が習合した行事のことを指します。
「盂蘭盆」という聞き慣れない言葉は、梵語(サンスクリット語)の「ウランバナ」の音を漢字に表したもので、「倒懸(とうけん)=さかさまに吊るすこと=非常な苦しみ」という意味を持ちます。そのように苦しんでいる霊を救うということが、この盂蘭盆の目的とされているようです。
その行事と、元々日本に存在していた古い宗教の行事とが一体となったため、細かく見ていくと、仏教の教えでは説明できない部分もあるのだとか。迎え火や送り火を焚く時に「おりん」を鳴らすので、私はてっきり仏教行事かと思っていたのですが……ふむふむ、奥が深いのですねえ。
ご先祖様の霊をお迎えするにあたり、折った割り箸を胡瓜や茄子にくっつけた経験がある方も多いでしょうか。これは、ご先祖様の霊が乗る乗り物とされています。胡瓜は馬を、茄子は牛を模しており、「胡瓜の馬に乗って早く帰ってきてくれますように。でも、帰る時は名残惜しいから、茄子の牛に乗ってゆっくりと帰ってくださいね」という願いが込められているそうです。
これらの乗り物を門前に置き、「おがら」と呼ばれる麻の茎を焚いてご先祖様をお迎えします。これを七月十三日に行なう地方と、来月の十三日に行なう地方があるようです。
そうそう、仏壇や精霊棚の前に置かれた、あの、灯りがくるくる回る盆提灯も「お盆がきたー!」なんて気分になりますね。ご先祖様にとっての大切な目印だそうです。
迎え火は、現在では八月に行なう方が多いかもしれません。かく言う私も、毎年八月に行ないます。
迎え火を焚いた後は、ご先祖様が本当に家の中にいるような気がして、小さい頃は仏壇のまわりをやたらと眺めていました。現在も、お盆の間はなんとなく家の中も外も騒がしいような気がします。
そして、十五日または十六日に、ご先祖様を再び送るために送り火を焚きます。これも地方によって色々な方法があるようですね。こう言ったことを調べる学問は民俗学でしょうか。とても興味深いものがあります。
冒頭で触れた盆踊りは諸説あるのですが、お盆の翌日に行なわれてい
た行事だったようです。平安時代に始められた「念仏踊り」が起源であ
ると言われており、苦難を逃れた亡者たちの、喜び踊る姿を模したもの
であるとも言われています。
それにしても、「亡者の喜ぶ姿」って……!すごいですねぇ。
お盆は「亡き人がこの世に帰ってくる日」ということで、よく、「盆踊りの会場には亡き人々がやってくる」なんて話を耳にします。
そこでひとつ、盆踊りに関する不思議なお話を書かせていただきます。
それは、今から三、四年前のことでしたでしょうか。
横浜に住んでいる祖母の家の近くで開かれた盆踊りに参加した時のことです。
その日はお気に入りの浴衣を着て、揃いの浴衣をお召しになった踊り手のおばあちゃま方に混ざって、休憩もせず、ひたすら踊りを踊っていました。
盆踊りは、覚えるまではワタワタと慌てるし、輪の中に参加するまでがナントナク恥ずかしいのですが、同じ動きを繰り返すものなので、一度覚えるととても楽しいんです。時間も忘れて踊っていました。
すると、私のことを見ていた知り合いのおばあちゃまが、折角だからとやぐらの上に招いて下さいました。やぐらは思った以上に狭く、既に踊っている他の方々に目礼をして、そこで小一時間ほど踊らせて頂きました。
踊っている間は、周りの方々の動きに遅れないように、だとか、風が涼しいな、とか、そのようなことをなんとなく考えながら、兎に角曲に合わせて手足を動かしているような感じです。想像がつくかと思うのですが、輪になって、ひたすらにぐるぐるとゆっくり、踊りながら回っていきます。なので、時折、向かい合わせになった踊り手さんと目が合ったりするのですが、皆さんはとても真剣で、時間の感覚がなくなるような気持ちのまま、最後の曲を終えました。
曲が終わると、我に返ったという表現がぴったりなくらい、皆さんの表情が明るくなります。気の抜けたような感じで、互いに労いの言葉やお礼の言葉などを口にするのですが、皆さんが、私を見て、「あらぁ、こんな若い子が来てくれてたのねえ」って、おっしゃるんです。
驚きました。笠をかぶる曲はありませんし、確かに、踊っている最中に目が合っていました。ですが、本当に皆さんが口を揃えて、そうおっしゃるんです。
そこで私は、ああ、これだったら、あの世の人たちが混ざっていても分からないなぁと思ったのです。
ね、不思議でしょう?
今年は、震災の影響で、お祭りを自粛するところもあるかと思いますが、このような時だからこそ、と、盆踊りを開催されるところも数多くあるかと思います。
供養の気持ちも込めて、是非、足を運んでみてはいかがでしょうか。
もしかしたら、亡き人と擦れ違うことが、あるかもしれません。
(平成二十三年文月)
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水無月
風待月(かぜまちづき)、田無月(たなしづき)、涼暮月(すずくれづき)。
上記の言葉は、六月の異名です。
まったく、本当に、月の異名は、知れば知るほどその美しさにはっとさせられますね。
今月は水無月です。旧暦は、現在の暦とひと月ほどずれていると考えて差し支えないと思いますので、旧暦の六月は、現在の六月下旬頃から八月の手前くらいまでを指すことになるでしょうか。田植えが終わり、田んぼに水を引くために「水の月」と言うようになったそうですが、あれ?「水無月」って、「水が無い月」じゃないの?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
細かく見ていくと「水無月」の「無」とは「の」という連体助詞であるようです。そのため、「水が無い月」ではなく「水の月=水無月」という意味だそうです。ナルホドー。
さてさて。今回はそんな六月に「挿絵」を鑑賞するのはいかがでしょう?というご提案です。
皆さまは、竹久夢二という画家の名前をご存知でしょうか。黒猫を抱いた女性の絵が一番有名な、明治・大正期の画家のひとりです。彼は雑誌や宣伝広告物、文房具や日用品、果ては浴衣の図案に至るまで、実に様々なものに携わりました。
現在ではほとんど使われない「挿絵画家」という肩書きを持つ画家達は、明治末期から昭和初期に活躍しました。
綾部は夢二も大好きですが、「一番好きな挿絵画家は?」と聞かれたら、迷わず「高畠華宵」と答えます。
高畠華宵(たかばたけ かしょう)は、大正から昭和初期にかけて活躍した画家です。
当時は、第一次世界大戦による、いわゆる「戦争特需」からくる好景気に後押しされ、明治時代から少しずつ進んでいた文明開化が更に花開き、一部の富裕層だけでなく、庶民の生活が変化し始めた時期です。
一九二〇年代の都市部(主に東京)は、まさに現在の私たちが明治・大正・昭和の時代に抱く「レトロモダン」なイメージ通りの時代でした。
このモダンな文化は、金融恐慌や関東大震災など、暗い世相とコインの裏表のように一体となり、戦争に向かって足並みを揃える状態になるまで、ほんの短い間ではありますが、実に華やかな文化を都市部で展開させていきます。
浅草に代わって銀座が近代的な文化・流行を発信する中心地となり、当時の同盟国であるイギリスや、ヨーロッパの国々、そしてアメリカの文化をいち早く取り入れたモダンガールとモダンボーイが、洋装をして颯爽と歩む姿も散見されるようになりました。
洋装だけではなく、女性の着物の柄も、欧米風の大きく派手な、はっきりとしたデザインが流行し、百貨店がそれらを促進させ、着るものだけでなく、食や住に対する価値観までもが変化していきました。
一部の富裕層にしか与えられなかった教育が「大正自由教育運動」の風に乗り、一般の庶民に広まっていったことも特筆すべきことでしょう。
そんな時代に活躍した挿絵画家達もまた、流行を発信する担い手でもあり、夢二・華宵だけでなく、蕗谷虹児(ふきやこうじ)・加藤まさを・伊藤彦造・岩田専太郎をはじめとした才能溢れる画家達が、少年・少女雑誌などを舞台に活躍していきます。
今挙げた画家は現在でも人気が高く、画集などで絵を見ることができますが、江戸期の浮世絵とも、西洋絵画とも、風刺画とも違う独特のタッチです。
全ての挿絵画家に共通するものではありませんが、現在の少女漫画、もしくは綺麗系の少年・青年漫画風のタッチに近いかもしれません。
題材は、掲載される場所によりますが、少年・少女が主で、みな一様にとても美しく描かれます。それは、少女や婦人に限らず、少年でも青年でも同じことなのです。
冒険活劇や戦記物の挿絵であれば、主人公は美しく凛々しい若衆です。西洋が舞台の挿絵であっても、その美意識は徹底して貫かれます。
主人公はみな美しいのですが、彼らと敵対する人物は、非常に雄々しい(時に醜さを伴った)年長の男性が描かれることが多いのです。これは、物語のスタイルが、少年が「大人」と戦い、彼らに勝利し成長していくという、典型的な近代小説のひとつである成長譚(ビルドゥングスロマン)の形をとっているからなのでしょう。
などというコムズカシイ話もヨイのですが!是非一度、挿絵をご覧ください。
私の祖母は女学生の頃、大好きな挿絵画家の絵を丁寧に切り抜いて、お気に入りの缶(たぶん紅茶の缶とか、そんな感じのものだったような……)の中に入れていたと言います。
戦争へと向かっていく直前の時期に、都市部での憧れはもっぱら欧米の文化を自らの生活に取り入れることでした。もちろん、このような流行には賛否両論があり、みなが全てこのような文化や生活スタイルを取り入れた訳ではありません。実際に、都市部に暮らしているとは言え、多くの人々の生活環境は江戸・明治の生活スタイルをそのまま踏襲した、いわゆる日本的なものだったからです。
しかしながら、私はこの時代のことを知る度に、日本人の柔軟さに驚かされます。
水に囲まれた島国だからこそ、海を渡ってやってきたものを尊重し受け入れますが、拒絶反応を過度に起こさぬよう、自らの手によって適度にアレンジして取り込んでいくのです。
その感性は目をみはるほどに素晴らしいのですが、少しだけ危なげでもあります。
そんな行ないは、今の私たちの生活スタイルや文化にも、受け継がれているように思えてなりません。
梅雨の晴れ間に、以下の美術館に行かれてはいかがでしょう。
竹久夢二と高畠華宵ほか、たくさんの挿絵画家達の作品を見ることができます。
「弥生美術館・竹久夢二美術館」
http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/index.html
綾部がこちらの美術館に初めて伺ったのは、十八歳の時でした。
社会科見学の帰りに、ひとりでドキドキしながら美術館の受付を潜り、華宵の六曲一双屏風「移りゆく姿」を生で見た時の感動は、今でも忘れられません。
常設展もさることながら、企画展も実にステキですよ!
平成二十三年水無月
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皐月
さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする
〈読人知らず『古今和歌集』〉
五月になりました。あっと言う間に桜が散り、続々と入梅しておりますね。
上記の歌は、皆さまも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
『古今和歌集』に収められている、有名な和歌です。
「読人知らず(「詠み人知らず」とも書きます)」とあるように、誰がこの歌を詠んだのかは、よく分かりません。
『伊勢物語』という、平安時代初期に書かれた「歌物語(和歌を中心にして物語が展開していく類いの読み物。書き手のテンションがマックスになると、作中に和歌が登場する)」に、この歌を引用した物語が載っていますが、その『伊勢物語』もまた、誰が書いたのか、はっきりと分かっておりません。
では、この歌はどのような意味なのでしょうか。
この歌を、毎度おなじみ、綾部なりに訳してみます。
五月を待って咲く美しい橘の花の香りをかぐと、以前に恋仲であった人の袖に薫き染められていた、香の匂いを思い出すのだ。
このような感じでしょうか。
平安時代の貴族たちは、現代の私たち以上に「香り」を大切にしていました。日常生活の中で「香り」はなくてはならぬものであり、着物に、髪に、邸内に香の匂いを薫き染め、その「香り」に包まれて暮らしていました。
思いを寄せる人に渡す文にもばっちりと香の匂いを染み込ませ、自分の感情を表現したようです。恋する人の手紙から、その人の香りがふっと立ち上るなんて、悩ましいことこの上ないですね。メールで思いを伝えることも、手紙で思いを伝えることも、「伝えたい!」と思う人々の気持ちそのものは、今も昔も変わりがないように思いますが、気軽に出歩くことが難しかった、当時の殿方や姫君にとって、待ち望む人からの文は、一体、どのような存在だったのでしょうか。
香りの歴史は非常に古く、仏教と密接に関わって、貴族階級の人々に伝えられました。仏教儀式に香を取り入れ、空間そのものを精神的な場として演出することを提唱したのが、彼の有名な聖徳太子であることを、私は先日初めて知りました。いやはや、さすが。目覚ましいことをたくさんなさっておりますね。
以上のことから分かるように、当時の人々にとって、香りを身にまとうという行為は、単なるおしゃれではなく、宗教的な行為でもあったようです。
梅雨が近付き、こうして湿度が高くなってくると、私たちもなんだか、香りに対して敏感になるような気がします。
目で見た景色、耳で聞いたことは、時間の経過に伴い、少しずつ色褪せていくことが多いものですが、匂いに関する記憶だけは、いつまで経っても非常に鮮明です。
このことからよく思い出す話がひとつあります。
それは、私が、五歳とか六歳とか、それくらいの頃でしたでしょうか。
祖母の家で遊んでいると、鏡台に美しい香水瓶が置いてありました。その瓶の色は忘れてしまいましたが、反射的に「きれいだ!」と思ったことは、今でも覚えています。
幼い私は祖母の許可なく瓶の蓋を開けて、なんの躊躇いもなくワンプッシュしてしまいます。すると、ゆらゆらとした、淡い頬紅のような、白粉のような、凛々しい意匠の鏡台そのもののような香りがしました。ワンピースを翻して、颯爽と戦後の賑やかな街を歩く、楽し気な女性の笑い声が聞こえたかもしれません。
少し落ち着いてから考えると、その匂いは紛れもなく、祖母の匂いそのものでした。
その時が何月何日だったかは、もう覚えていませんが、その時の匂いは、知らず知らず、私の中の引き出しに、きちんとしまわれたのでした。
それから、十年以上経った夏のことです。誕生日を迎えた私は、家族から、香水をプレゼントされました。
それは、フランスの香水「GUERLAIN」の「MITSOUKO(ミツコ)」です。
私の祖母の母、つまり私の曾祖母の名前はミツコと言いました。ミツコさんの旦那さん、つまり私の曾祖父は、語学に長け、趣味はテニス。三つ揃いのスーツを身に纏った、イワユル洒落者だったそうです。
そんな曾祖父が、「お土産だ」と言って曾祖母に贈ったのが「MITSOUKO」でした。
誕生日プレゼントとして家族から贈られた「MITSOUKO」の匂いを嗅いだ私は、そこで初めて点と点が線になりました。
幼い頃に嗅いだ、あの祖母の匂いは、他でもない「MITSOUKO」の香りだったのです。
冒頭でご紹介した和歌の詠み手は、花橘の香りから「昔の人」を思い出しました。
皆さんもきっと、ふとした瞬間に嗅いだ匂いを、何年も経って思い出すような経験をなさっているのではないでしょうか。
それにしても、香りを文章にすることの、なんと難しいことでしょう!
余談として、今月の初旬に、東京藝術大学大学美術館で開催された「『香り かぐわしき名宝』展 Fragrance - the Aroma of Masterpieces」というものに行ってきました。
「香りを見ることはできるか?」そのような試みの、とっても刺激的な内容でした。
事前に皆さまにお知らせすれば良かったのでは……という反省もしつつ、香りの歴史を、公式サイトで少しだけご覧頂けます。
よろしければ、是非ご覧になってみてください。
開催期間は二十九日までだそうです。わー!いそげー!
「香り かぐわしき名宝」展 Fragrance - the Aroma of Masterpieces
http://kaori.exhn.jp/
平成二十三年皐月
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卯月
四月も終わりに差し掛かっておりますが、今年の桜も見事でしたね。
私の住んでいる場所ではもうすっかり葉桜になってしまって、それらを見ながら、ああ、夏が近付いてくるなぁと思っています。
今年は、震災の影響で「花見自粛」といった言葉が随所で見られましたが、皆さまはお花見をなさいましたか?
私は、伊豆に桜を見に行きました。
見事な花を咲かせる桜の姿は、ずっと前から変わっていませんが、今年の桜を見た時に、どことなく力強さと物悲しさを感じてしまったのは、私だけではないかもしれません。
桜は、日本における春の象徴であり、私たちの生活の中に深く深く根付いている不思議な植物です。
日本と言えば桜、この連想に違和感を覚える方々は余り多くないかと思います。
では、なぜ、「日本と言えば桜」なのでしょうか。
如月の随筆でも書かせて頂きましたが、時間をずーっと遡っていくこと奈良時代以前では、「花」と言えば梅を指しました。
当時は、為政者たちが朝鮮半島と中国(当時の王朝は唐)の文化や政治、学問などを積極的に学んでいった時代です。
梅の歴史については諸説あるようですが、中国から日本に伝えられた植物の一つであり、「唐風」と呼ばれる文化を彩る花として、皇族や貴族たちに親しまれることになりました。
ですが、時が移り、唐の権力が衰えていくことや、唐や朝鮮半島から学んだ事柄をベースに日本の風土に合った生活を行なっていくにつれて、日本の皇族や貴族たちの中で「我々の国は、唐とは違う国である」というような感覚が生まれてきます。
もちろん、それまでにも、自分たちのアイデンティティを幾度となく確かめていたでしょうし、それを行なうことによって、宮廷が権力を発揮していったことに間違いはないでしょう。しかし、その「俺ら、唐とはなんか違うじゃん?」という思いは、次第に強くなっていき、その思いは、花鳥風月を愛でることを好んだ彼らの美意識にも変化を与えることになります。
私たちは、歴史の授業で、「飛鳥時代の次は奈良時代、奈良時代の次は平安時代ですよ」と習います。そうした学びによって、なんとなく、「奈良時代が終わった瞬間、奈良時代的な物事が全て消えて、まるでスイッチが切り替わるかのように、一気に平安時代っぽい感じになる」ような気になります。これは、江戸時代と明治時代の移り変わりに関しても同じことが言えるかもしれませんが、一度立ち止まってよく考えてみると、そんなことはあるはずがないということに気付かされます。
政治の変化は国を動かす一大事ですが、それによって、綾部家の箪笥の中の洋服が全て、今まで着たことのないものに変わってしまうことなど有り得ないように、生活様式の変化はゆっくりと行なわれていきます。
ゆえに、平安時代初期などはまだまだ唐の影響も色濃く、所謂「国風文化」という生活様式を少しずつ、皇族や貴族たちが編み出していったのでした。
そんな中で、彼らが愛でる植物も変化し、「唐の文化に対する、この国独自のもの」として、桜が愛でられるようになっていきました。
無論、それだけではなく、桜が開花する時期が稲作を始める時期と同じことから、皇族や貴族以外の階級の人々にも広く重宝がられ、親しまれたようです。
当時の人々が愛でていた桜は、今日私たちが愛でているソメイヨシノではなく、ヤマザクラでした。寒い冬を終え、深い色の緑や土色の空間の中に、ぱっとあの花の色があると、思わずどきっとしてしまいます。
桜の品種に関わらず、一斉に咲き、零れ落ちるように、溢れ出すように散っていく花弁の美しさは、時に「潔く散ることこそ美しい」という思いを強く引き起こしてしまいます。
私は、そのことを肯定しませんし、否定もしません。ただただ、はっとしながら桜を見ることにしようと決めています。
冒頭で触れた「花見」はまさに、そんな、どこかどきどきするような、はっとして落ち着かない心を解体し、ゆっくりと組み直すためのおまじないのようなものである気がしています。
平安時代初期の勅撰和歌集(時の天皇が「イカしてる和歌集を作ろう!」といって作らせた和歌集のこと)である『古今集(春下・84)』に、皆さまもよくご存知であろう紀友則の和歌があります。
ひさかたの 光のどけき 春の日に静心なく 花の散るらむ
(光がうららかな春の日に、どうして桜はあんなにも、はらはらと落ち着きなく散っているのだろう※訳:綾部)
この歌を詠んだ時の友則も、桜を見てどきっとしていたのかもしれません。
大らかでゆったりとした響きを持つ歌ですが、なんとなく艶っぽい印象を受けてしまいます。皆さまはいかがでしょうか。
最後は、江戸時代に流行した「花見小袖」というものをご紹介して、今月の随筆を終えようと思います。
中江克己著『お江戸の意外な生活事情』という、とっても面白い本に、「元禄年間(一六八八〜一七〇三)ごろ、女たちのあいだで「花見小袖」が流行した。」という文章があります。
当時の花見は、自分たちの場所に幕を張り巡らしたそうで、幕のない町人たちが、幕の代わりに小袖を掛け始め、いつしかわざと小袖を掛けて衣裳の自慢をするようになっていったとあります。
元禄文化と言えば、豪奢で優美な着物が沢山生まれた時代でした。
桜の花と自分の美を重ね合わせ、その移ろいを切なさをこめて歌い上げたのは、絶世の美女と言われている小野小町ですが、この「花見小袖」の話を知ると、その「女性の美は桜のように移ろう、儚いものだ」という感覚を逆手にとって「今」を楽しもうとしている元禄時代の女性たちの逞しさを感じます。
桜と人々の歩みを紐解けば紐解くほど、その深さに驚かされるばかりです。
拙い足取りで歴史を追いかけようとしたら、眼前で桜の花びらが勢いよく舞い、驚いて瞬きをしたらもう、五月がすぐそこまで来ていました。
来年の桜を楽しみに、また一年を過ごそうと思います。
平成二十三年卯月
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弥生
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。
松尾芭蕉『新版 おくのほそ道』
(潁原退蔵・尾形仂訳注 角川学芸出版 平成十五年三月二十五日)
連日、どこからともなく聞こえてくる弔いの琵琶の音と共に、この一文が頭の中で渦巻いて、離れてゆきません。
この文章を初めて読んだのは十五歳、中学校三年生の時でした。
私の通っておりました学校はなんとも(良い意味で)変わった学校で、遠足の場所がなぜか富士の樹海だったことがあります。
後日、年配の学年主任の先生に「なぜ行き先を樹海にしたのですか」と聞いたところ、「だって、美しい場所なんですもの」という、なんとも言えず絶妙な答えをもらったことは、今でも良い思い出です。
なので、修学旅行と言えば玉敷きの都、そして安芸の宮島という固定観念をあっけらかんと打ち破り、行き先を東北旅行に決めた理由も、きっと、「だって、東北は京都や広島に負けず劣らず美しいんですもの」というものに違いありません。
実際に、東北はそれはそれは美しい土地でした。
と、その前に。話を芭蕉に戻します。
そのような経緯から、古典の時間は『おくのほそ道』を随分と丁寧に学んだ記憶があります。
時間の関係で全文を精読することはできなかったわけですが、授業を通して、と言うよりも、芭蕉の目を通して見た東北は、その土地とそこに住まう人々、そして他方からやってきた人々が紡いできた数多くの「歴史」をなんの矛盾もなく「今」に引き込んでいる、大らかな、でもどこか厳しい土地でした。
ここで少し『おくのほそ道』についておさらいさせて頂きますが、この作品は、元禄時代(江戸時代初期。1688年から1703年です。当時の将軍は「犬公方」と揶揄された、アノ綱吉です。)の俳人、松尾芭蕉が書いた紀行文です。
「とにかく旅に出なければ!」なんていう、そわそわした思いに駆られ、弟子の河合曾良(かわい そら)と一緒に東北・北陸を約2年間かけて旅します。
名文や名句の多い作品の中でも、取り分け、個人的に印象深い文章が、冒頭の文です。
改めて、辞書を片手に私なりに訳してみますと、このような内容になります。
(それにしても、源義経が忠義の心のあつい臣下を傍に従えてこの館(安衡らの旧跡)にこもったが、彼らの功名やかつての武勲はひとときのものであり、今はただただ眼前に草むらが広がっている。「国は壊敗してしまったが、山々や河は昔と変わらずにそこに存在しており、春を迎えた城の周囲には、若草が萌え出ている」と、杜甫の詩の一節を唱えながら、その場に笠を敷いて腰を下ろし、空の色が変わるまで落涙するに任せた。)
十五歳の私は、「時の移るまで涙を落としはべりぬ。」という文を読み、芭蕉が泣いている姿を、芭蕉の横で、土と草木の匂いを嗅ぎながら、何も言わずに見ているような気持ちになっていました。
そして、実際の東北は、美しい青葉のような、けれどもどこか落ち着いた色彩を持った土地で、わいわいと騒がしく観光地を移動しながら、土地の持つ寡黙な力強さと、今昔の時間がぐっと溶け合ったような雰囲気を確かに感じていました。
私が修学旅行で行った場所は、岩手県・宮城県・福島県だったと記憶しています。
それから、縁というものは不思議と、本当に糸のように繋がっていくもので、父方の本家が白石市にあることをその前後に知らされ、生まれて初めてご先祖様のお墓参りに行きました。
季節は、猛暑でも冷夏でもない夏でした。
柄杓を片手に持ち、高台にあるご先祖様のお墓の前に立って辺りを見渡すと、少し離れた場所に新幹線の線路が見え、その手前には、民家や色鮮やかな田圃が広がっていました。
視線を更に引き寄せますと、お寺の中に生えている背の高い青竹が、夏の陽射しに照らされながら、立ち並ぶ墓石に涼やかな影を落としています。
とても美しい場所だと思い、その思いは今でも変わりません。
東北地方は六県ありますが、それから今まで、行ったことのない県は秋田県と山形県のみになりました。
かつての恋人が仙台の人で、夜行バスで会いに行ったこともありました。
塩釜の町を歩き、塩釜港から船に乗り、松島の島々を見ました。よく晴れた冬の日でした。
松島は景色が余りに美しく、芭蕉が絶句してしまい、句を残すことができなかったと言われています。
感動の余り「松島や ああ松島や 松島や」という句を残したという話も時折語られますが、芭蕉の他の句を読めば、この句が後世の人々による作りものであるということがすぐにお分かりになるかと思います。
三月十一日に起きた未曾有の大震災で、失われたものは数え切れません。
常日頃から、物事は不変ではないと考えていましたが、全く本当に、実に理不尽な形で、多くのものが失われていき、その動きは今でも続いています。
頭が追い付かないほどの急激な動きです。
そんな中で、私に何ができるのかをずっと考えていました。
億万長者でも、医師でも技師でもない私は、衣食住に困らない場所で、ちょっとずつ節電をしながらテレビやインターネットを通じて、被災地の惨状を見聞きしています。
苦しい中でも懸命に日々を過ごしていらっしゃる方々の姿を見て、私は、ふと、土地の持つ力というものについて考えることにしました。
「国は壊敗してしまったが、山々や河は昔と変わらずにそこに存在しており、春を迎えた城の周囲には、若草が萌え出ている」
戦乱、天災、飢饉など、人々の歴史には必ず多くの悲しみや苦しみがついてきます。
「戦乱」「天災」「飢饉」と一言で言ってしまうとなんだか簡単に聞こえてしまいますが、その言葉を自分の中に取り込んだ時に、それは、大事な人が命を落としたり怪我をしたりするという、小さな悲しみが幾つも集まっているものであるということに気付かされます。
それでも、冬の次が必ず春であるように、人々は生きる強さを持っています。
私はそのことを、今回の震災を通して改めて感じています。
今は被害状況が目紛しく変わる毎日ですが、私が十五歳の頃に感じた東北という土地の持つ力強さや美しさは、決して変わることはないのではないかと思います。
「寡黙であるけれど闊達で、懐が深く、辛抱強い」
東北の方々に対して抱いているイメージはこのような感じなのですが、外れではないのではないか、とも思っています。
東北地方だけでなく、他の地方でも、長野県や茨城県を始めとして、被災した場所が沢山あります。
人々が生きている場所には、必ず連綿と続く歴史があり、その歴史の先端のところに私たちがいます。
それは非常に脆い立ち位置ではありますが、きっと、その脆い場所を、前後左右を確かめながら少しずつ歩いていくことが「生きる」ということなのかもしれません。
東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
また、亡くなられた皆さまのご冥福をお祈りしております。
一刻も早く、平穏な日常が皆さまの元に戻りますよう、
ただただ、こいねがうことしか今はできない立場ではございますが、
刻々と移り変わる空を見上げながら、ひたすらにそのことを願っております。
平成23年3月 綾部ふゆ
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如月
二月、如月。
令月。麗月。梅見月。
これ、全部二月を表す名前だそうです。
正しくは「陰暦二月の異名」ということですが、現在は太陽暦が主流なので、太陽暦/太陰暦関係なく、これらの名前を使っていますよね。
令月は「何事をするにもよい月。めでたい月。」、
麗月は漢字の通りに「麗しい、うららかな月」、
梅見月も漢字の通りに「梅の咲く月」という意味が込められているようです。
今回は、梅見月にちなんで、私の大好きなエピソードをひとつご紹介します。
それは、平安時代の貴族であり、優秀な学者、漢詩人、政治家でもあった菅原道真に関するお話です。
菅原道真は、承和12年(845年)に、学者の家の子として生まれました。
天賦の才は、父親譲りであったようです。
幼い頃から詩歌の才を発揮した道真は、18歳の時に漢文学を学ぶことのできる文章生(もんじょうのしょう)になり、それから徐々に昇格していきます。そして、宇多天皇(在位:仁和3年11月17日(887年12月5日)〜寛平9年7月3日(897年8月4日))に重用され、更に更に昇進していきます。
彼は学問に秀でていただけでなく、人の話を聞く能力や、自己を演出する能力が高かったのでしょう。醍醐天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)〜延長8年9月22日(930年10月16日))の元で、遂に右大臣にまで昇格します。
ですが、時の左大臣である藤原時平の計略により降格させられただけでなく、太宰府へと左遷されてしまうのです。
とうとう京を去る時に、道真は悲嘆の中で、可愛がっていた白梅の木に寄せてこのような歌を詠みます。
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
(春を告げる、東方からの風が吹いたなら、その風に香りを乗せなさい、梅の花よ。
主人がいないからといって、春を忘れぬように。)
アヤベが意訳をしてみるとこのような意味になります。
すると、流石は天に愛された詩人です。道真の住む、京より遠く離れた九州の屋敷に、歌を寄せた梅の花が一晩で飛んできたのです。
もちろん、カガクギジュツの進んでいる現代社会に生きる私たちは「えーホントかよー」などと思ってしまいますし、この言い伝えには諸説あるそうですが、栄耀栄華から一転、政敵への恨みと、自らの境遇に対する悲しみに打ち拉がれていた(かもしれない)道真の心に、この梅の木はどれだけの癒しを与えたのでしょうか。
道真は、その後、京への思いを胸に抱いたまま九州の地で薨去しますが、それからの京は異変が相次いで起こるようになります。
政敵であった時平が、道真が薨去した6年後に病死したことを皮切りに、時平の親類が次々に病死し、更には、天皇が日常生活を送る場所である清涼殿に雷が落ちます。その時は、折悪しく会議の真っ最中で多くの要人がおり、多数の死傷者が出たようです。
これらのことから、これは道真の祟りなのではないか、ということになり、慌てて道真を昇格させ、彼の怨念を落ち着かせるべく太政大臣の位までもを授けます。
しかし、それでも天災などが度々起こり、それらを鎮めるために、京の中に北野天満宮を造営しました。
天満宮の神紋が梅の花なのは、以上のエピソードに由来しているのですね。
実は、綾部が生まれ育った町の氏神様も天満宮でした。
社務所の壁に、
「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」
(天皇より賜った衣は今も此処にあり、毎日、衣に薫き染められている香り、
そしてそこに秘められている天皇からの恩恵を謹んで聞き、京への思いや忠誠を新たにする)
という言葉が貼ってあったことを時折思い出します。
その紙には、左遷されても時の天皇を恨むことはせず、むしろ天皇より下賜された衣の香りを日ごと大切に捧持し、忠誠の心を持ち続けた道真を讃えた文章が添えてありました。
私は、この詩を読むといつも、整った装束で恩賜の衣を恭しく捧持している道真、ではなく、泣きじゃくりながら衣を抱き締めてくずおれるような姿勢でいる道真の姿が目に浮かびます。
皆さんは、この詩をどのようにお読みになるでしょうか。
現在は、「日本の代表的な花」と聞くとすぐに桜の花を思い出す方が多いと思いますが、奈良時代よりも前は、梅を示しました。
梅には幾つかの別名がありますが、「春告草」という別名も持っているそうです。
梅が咲いてもなお、厳しい寒さが続く日々ですが、ふと柔らかな刷毛を動かしたような風が吹いて、春が来たなあと思いました。
この感覚が1000年以上も前から存在していたのだと思うと、なんだかとっても不思議な、秘密の扉を開けたような思いになります。
寒い冬よりも暖かな春に、気持ちがなんとなく揺らぐような気がするのは、もしかしたら、道真の愛した白梅の香りのように、地中深くに潜んでいた生命力のようなものたちが風に乗って、あちらこちら、行き先を決めずに漂い始めるからかもしれません。
(平成二十三年如月)
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睦月
皆さま、初めまして!綾部ふゆのページにようこそおいで下さいました。
アクアリズムにおける「日本文化のキャンペーンガール(モトキサンは「キャンギャル」とおっしゃる!)」を担当させていただくことになりました、綾部ふゆと申します。
元木さんから、「好きなだけ、好きな物事を語ってよし」というお許しが出たと勝手に解釈しちゃいましたので、ここでは、私の好きなことや、日々の暮らしの中で気づいたことなどをゆるゆると、時に熱く語らせていただいちゃう予定です。
寄り道が大好きな綾部ですので、たぶん、あちらこちら、行ったり来たりするかと思います。
日本文化を知るために、海外の文化や歴史にも触れるかもしれません。
このページを通して、私自身も勉強し、さながらタケノコやフキノトウのようにすくすくと育ってゆきたいと思っています。
記念すべき連載第一回目ということで、ちょっとカチコチして鹿爪らしいことを書いちゃいそうなんですが、そうだときっと、ずーっとカチコチとしてしまう気がしているので、こんな感じで進めてまいります。
どうぞよろしくお願いいたします!
さてさて。私には、一月の寒い日に必ず思い出す俳句があります。
それは、
「降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男)」
これです。教科書にも載っていたかもしれませんし、有名な句ですので、ご存知の方も多いと思います。これは昭和六年の句だそうです。
昨今の幕末ブームで、江戸という時代がどのようにして終わりを迎えたのかは、多くの方が知るところとなりました。時代劇や時代小説で人気の戦国時代や江戸時代中期とは違い、幕末という短い間の出来事は、一昔前は余り注目されていなかったと記憶しています。
江戸から明治になり、人々の暮らしは大きく変わっていきました。勿論、ドラマティックに変わっていったのは主に上流階級の人々の暮らしであって、年号が変わったからと言って、市井や農村などに住まう人々の生活に大きな変化は、すぐにはやって来なかったろうと思います。
しかし、西洋の文化や思想が流れ込んできたことは大きな大きなことだったはずですし、日本はこの時代から諸外国と歩調を合わせるべく、むしろ諸外国を追い越そうと近代化を行なっていきます。
明治という時代は多分、江戸時代の生活様式と西洋の文化とが、違和感を伴いつつもゆっくりと混ざり合った、不思議な時代だったのではないでしょうか。それらの独特な雰囲気が、更に濃密になっていくのが大正時代かなぁと思っています。
大正十二年九月一日に起こった関東大震災で、東京にあった、江戸と明治の面影を色濃く残す建物はほぼ壊滅し、更に太平洋戦争へと進んでいってしまうわけですが、こうして時代の流れを改めて(都市部だけでも。ざっくりとでも)捉えてみると、確かに時間は経過していて、そして、確かに「今」と「過去=歴史」は繋がっているということに気づかされます。
私たちは、年表というものを使って、歴史を捉える癖がついています。もっと身近な例で言えば、スケジュール帳を見なければ思い出せない過去が沢山あります。
けれど、そこで一度、それらに引かれているラインを取り払い、漠然とした「過去」として時間を遡っていくと、それらは全く、本当に果てしないほどの長さと大きさの、道のようなものとして私たちの前に現れてきます。
教科書や本に載っているだけの、夢物語のような時代が実は、自分に繋がっているということを実感できるかもしれません。
そうして、自分の中に「歴史」を引っ張り込んだ状態でこの句を読んだりつぶやいてみると、いいんですよねえ。
大晦日の街は人が溢れているのにしんとしていて、ああ、神様が降りてくるなぁと思ったことを、この文章を書きながら思い出していました。
いつもの街なのに、そこはいつもの街ではなくて、ひっそりと、何かが穏やかに息を殺しているような美しさだったのでした。
神様やあの世はきっと、私たちが思うよりもずっと近くに存在しているのかもしれません。
私たちがそれに気づかないだけで。
初春を言祝ぐ人らの頭上にて神々も初春を言祝ぐ
(平成二十三年睦月)
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綾部ふゆ / Ayabe Fuyu
昭和六十一年七月十二日生まれ
東京都出身
青山学院女子短期大学文学部国文学科卒業
第五十一回短歌研究新人賞佳作
詩集「かぎろひセピア」 (佳宵布由<かしょう・ふゆ>名義)/文芸社
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綾部ふゆ検索キーワード:
日本文化 短歌 ジェンダー 平家 源平 レトロ 琵琶 舞 ハイカラ モダン 日本文学 歴史
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*[ 予告第一報 2010/10/01 ]
どうだどうだのアクアリズム秘密兵器!可愛すぎる兵器!こんなフェイスをした女子がまさかあんなコトやこんなコトに萌え萌えしてるなんて。ていうかこのアクアリズムによもや萌えコンテンツが登場するとは! 日本文化コンテンツを今後推し進めていきたいアクアリズムに舞い降りた天女?兎に角、ちょっと、いやかなり変わり者の天女・綾部ふゆがこれから日本文化や日本文学を“ふゆ視点”で紹介していくページを作っていきます。
*[ 予告第二報 2010/11/01 ]
〜「アヤベ、赤面しながら自分を語る」〜
十代の頃から詩を書き始め、短期大学の授業を通して短歌を学ぶ。
在学中は高野公彦氏に師事し、「あなたは恋愛の歌を詠みませんねえ」とにこやかに言われる。
専攻は近代文学で、太宰治の戯曲を卒業論文のテーマに取り上げる。
短期大学卒業後は、同大学の専攻科に進学し、修了。
坂口安吾を修了論文のテーマとして選ぶ傍らで、ジェンダーについての考察も深めていく。
兎に角好奇心が旺盛過ぎる。
趣味は上代から現代までの日本文化について悶々と考えたり、デレデレしたりすること。
戦国時代は余り興味がないものの、源平合戦のことを考えただけで胸がドキドキ。涙がはらはら。
各時代の萌え要素を見つけてはニヤニヤしたりしている。
それと同時に、世界中の文化と歴史に興味がある。
色々な国の人と話をし、色々な国に行ってみて、改めて自分の国を眺めてみたい。
本、漫画。同じくらい好き。
読書ジャンルは時代小説、近代小説、古典、推理小説、SF小説と恋愛小説もスコシ。
歌集も詩集も画集も好き。
好きな挿絵画家は高畠華宵、竹久夢二、中原淳一。
神社仏閣に行くとテンションが上がる。
梅の花と縁が深い。
好きな花は白梅、白木蓮、白百合、侘助。白い花が好き。桜も好き。
日本的な色彩に対するセンスを持っていると自負。
色彩感覚は、ほとんど自然の景色から得た。自然を眺めるのが好き。
街の中にある、レトロな建物や道を見つけるのも大好き。
好きな時間帯は夕暮れ時。
江戸時代的な日本と言うよりは、明治・大正・昭和初期のような、和風洋風ミックスな世界観が好き。
その時代の文化や生活様式に物凄く興味がある。
モダンガール、モダンボーイ、女学生、ハイカラ、おいでませ!
現在は、吉村流上方舞と薩摩琵琶を習っている。
師匠はそれぞれ、吉村京佳先生、西原鶴真先生。
*[ 予告第三報 2010/12/01 ]
〜「バカ行かないで」と詠んで萌えさせるアヤベ〜
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大鎧まとうて去りつる資盛に「バカ行かないで」と言へばいいのに
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この歌には、資盛と恋仲であったとされる、
「建礼門院右京大夫/けんれいもんいんうきょうのだいぶ(これ全部で一人の女性の名前)」 と言う女性の書いた私家集(しかしゅう)、
『建礼門院右京大夫集』と言う作品を読んだ 感想と言うか、
二人に対する情熱(笑)が込めてあります。
資盛と言えば右京大夫、ということなので、
歴史あるいは文学マニア?なら、すぐにピンときて下さる的なものです。
平清盛の孫である平資盛という年下の恋人に激しく愛されながらも、
次第に衰退していく一門を見つめる右京の眼差しが愛しい。
資盛が壇ノ浦で入水したあとも、右京は生き残って結構な歳まで生きるのね。
彼からもらった文を漉き直してそこにお経を書いて弔ったりするの。
あ、もうもうこれ書きながら号泣だよ…ほろほろ。
だから、もしも世の中の風潮が、もっと自由で、
それぞれが命を重んじることこそ重要であるということに気付けたなら、
どんなにかいいだろうと思って。
それで詠みました。
歌の中では、右京ちゃんと資盛との関係に涙を流す傍らで、
右京ちゃんになっている自分もいるというような感覚です。
……分かりにくいでしょうか…(どきどき)
平家を詠んだ歌はもう二作あります。
息を止め入水をしたる維盛の手首でゆれる珠のつらなり
(佳作受賞作)
なまぐさき屍屍が山のごとくに重なれど泣くな、敦盛
(近作。ブログ掲載済み)
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